第二話

「嫌です、そんなこと!」


 ある小さな国の大統領夫人が涙を浮かべて夫である大統領に首を振った。


「なんでそこまでやらなくちゃいけないんですか? 自分の命をかけてまでこの国のためにって!」

「僕はこの国の大統領だからだよ」

「だからって、何もそんな……」


 夫人が夫から聞いたのは、わざと暗殺者の前に身を晒し、そして暗殺されるという計画だった。


「なんであなたが死ななくちゃいけないんです!」

「この国のためなんだよ」


 大統領はさびしそうに、だがしっかりとした口調で夫人を諭すように言う。


「今、この国は脅威に晒されている。分かるだろう?」


 大統領の言う通り、隣国があらゆる角度からこの国を飲み込もうと画策している。


「なのに、国民は危機感を持てていない。いわゆる平和ボケってやつだ。まさか民主主義の時代にそんなことをされるわけがない、そう思ってるんだ。考えが甘いにも程がある」


 言われるまでもない。

 今に限らず、洋の東西を問わず、そんな例は星の数ほどある。

 

「だからって!」

「だから、僕がこの身をもって、敵が誰かをみんなに知らせないといけないんだよ」

「嫌です!」


 夫人は泣きじゃくりながら夫の胸をどんどんと叩く。


「これを見てくれるかい?」


 夫人が夫の差し出す一枚の書類を渋々のように手に取り、そして驚愕した。


「これって……」


 夫人が見上げた視線に夫がしっかりとうなずいた。

 

 その書類には、今、世界で一番治るのがむずかしいだろう病名が記されていた。


「1年ぐらいだろうって言われたよ」


 どうしてこの人はそんなに静かにこんな大事なことを言えるのだろう。

 夫人は言葉もなく夫の目を見つめる。


「で、でも、あなたはこの国の大統領じゃありませんか。できるだけの治療をすれば、そうすればなんとかなるんじゃないんですか?」

 

 夫は軽く目をつぶるとゆっくりと首を左右に振った。


「もうね、色々と試してるんだよ。内緒にしていて悪かったけど」

「そんな……」

「そして、その書類の日付を見てごらん、もう半年以上前のことだ」


 驚いてあらためると夫が言う通りの日付を見つけた。


「分かるかい? もう数ヶ月しか残っていない」

「で、でも……」

「もちろんできるだけの治療はしてもらった。そして同時に、治療の効果が出なかった時のために、今回のことを並行して計画してきたんだ」


 夫人が見つめる夫の目には何の迷いもなかった。


「計画はこうだ。僕がある時ある場所で、反政府勢力、隣国寄りのテロリストに暗殺される。そして危険を国民に知らせるんだ。そのためにこの半年、必要以上に隣国に対して厳しいメッセージを送ってきた。ほっといても本当に何かしてくるだろう、ぐらいにね」


 夫が恐ろしいことをいたずらっぽい目で言う。


「現職の大統領が暗殺されたとなると、さすがに国民だけじゃなく世界も黙っていないだろう。少なくとも、隣国が計画しているこの国への侵攻を止めることはできるだろう」

「あなたのことをひどい大統領だ、みたいに言う人もいるわ」


 夫が妻の言葉に耳を傾ける。

 その通りだ。

 反政府、親隣国の勢力が、大統領こそがこの国を駄目にする存在だ、隣国に併合された方がこの国のためだ、そう主張している。


「もしも、本当に残った時間が少ないのなら、もういいじゃありませんか、その後のことなんて。大統領なんて辞めてしまって、残りの時間を私とゆっくり過ごしてくれるわけにはいきませんの?」

「そうだね、そういう選択肢もないことはないね」

「だったら!」

「もしもね」


 夫が妻の肩に優しく手をかけた。


「僕が、普通の政治家で、普通の夫であったなら、きっとそうしていたと思うな」

「だったら!」

「でもね、僕は大統領なんだ、この国の親みたいものなんだ。残していく子供のことは知りません、そんなことは言えないんだよ」

「そんな……」

「君も僕の伴侶として、この国の母として受け入れてほしいんだ」

「ひどい……」

 

 妻がわっと泣き伏した。


「だったら、いっそ教えてくれない方がよかった! 知らないうちに終わらせてくれた方が! そんなことを黙って見ていろ、そう言うんですね!」

「甘えてるよね」


 夫が泣く妻の背中をさすりながら柔らかく笑う。


「でも、君にだけは知っててほしかったんだ。そうして、一緒にこの国の親でいてほしかった。君も普通の妻じゃない、大統領の妻、大統領に並んで共に歩く者として」


 妻がしゃくりあげながら夫の声を耳にする。

 しばらく二人でそうして時を過ごした。


「いつ、なんですか……」


 妻がやっとのようにそう言った。


「それは、知らない方がいいだろうね」


 妻には答える言葉がなかった。


「ごめんよ、ひどいことをしてるよね。でも、この国が消えてしまわないように進む羅針盤を示すためなんだ」


 それからしばらくの後、計画は実行に移された。


 本当にこの国が大統領の望む方向に進んでくれるのだろうか。

 それはこれから歴史が決める。

 羅針盤の方向はどちらに向いているのか、それは今もまだ分からない。

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「とめられなかった羅針盤」2編(第36回) 小椋夏己 @oguranatuki

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