「とめられなかった羅針盤」2編(第36回)
小椋夏己
第一話
「大丈夫よ、お母さんの言う通りにしたら間違いはないんだから」
母の口癖である。
小さな頃からそうだった。
私だけではなく、弟と妹にもそうだ。
我が家は外から見ると完璧な一家だったと思う。
父は一流大学を出て一流企業へ就職し、お嬢様学校から有名私学へ進学した母とお見合いで結婚をした。
その後、長女の私、年子の弟と、さらに2年後に末っ子の妹が生まれ、3人共、物心ついた頃から色々な習い事をし、小学校からお受験をして有名私学へ通い、それが普通なのだと思って育ってきた。
自分で言うのもなんだが、私達は見た目も悪くはなかった。元々父も母もそれなりに整った顔立ち、無駄のない体型をしていて、3人ともきちんとその良い点を引き継いでいた。
「ご両親もお子様方も、皆様優れたご一家、羨ましいわ」
私達の一家はどこへ言っても羨望の的で、そんな視線を受け止めるのに慣れており、そして誇らしくもあった。
だが、私と弟が高等部へ、妹が中等部へ進んだ頃から少しばかり事情が変わってきた、妹が母の言うことを聞かなくなってきたのだ。
「あなたはどうして最近そんな風なの?」
母がそう言ってため息をつき、その前で妹がぷいっと横を向く姿を見ることが多くなってきた。
きっかけは妹が演劇部に入りたいと言い出したことだった。
「そんな浮ついた部なんていけません。芸能関係をやりたいのなら、コーラス部とかオーケストラ部とか、もっと上品な部がいくらでもあるでしょう」
母はそう言って妹が演劇部に入るのを認めなかった。
その頃から、妹が母に逆らうことが増えてきたのだ。
「私には私のやりたいことがあるの!」
「どうしてあなたはそうなの!」
よくそう言い合いをしていた。
私にはなぜ妹が母に逆らうのかが分からなかった。弟もそうらしかった。
「なんであいつはお母さんにあんなに逆らうんだろう」
弟も不思議そうに私にそう言っていた。
私もそう思っていた。
だって、母はずっと私達のことを考えて、どの道を選んでどう進めばいいのかを考えてくれている。そしてその道に沿って進める環境を整えてくれている。
だけど妹にはそれが苦痛だったようだ。
高等部の2年の時、妹はいきなり姿を消してしまった。
「私は女優になります」
たった一言そう書き残していなくなった。
両親は必死に妹の行方を探し、そして東京のある小さな劇団にいるのを発見した。
急いで迎えに行き、何度も戻るように説得をしたが、妹の決意は固く、一年ほどの攻防の後、両親も諦め、もう二度と戻ることは許さないと縁を切ってしまった。
怒りのあまりの決断だが、両親がその後で何度も嘆いていたのを見て、私も弟も妹の親不孝に憤り、私たちだけは両親の定めてくれた道を外れるまい、そう決めてまっすぐに進み続けた。
その後、妹は小さいながら役がつくようになり、時々テレビや映画などで見かけるようになった。
一度だけ妹が出ている映画を見たことがある。スクリーンの上の妹は生き生きとして、しっかりと作品に深みを与える役者になっていた。
「僕も見たよ」
弟とその映画の話になった。
「あいつ、とうとう自分の考えを通してしまったな」
「そうね」
「今でもあいつが正しいとは思えないし、自分たちは正しい道を歩いているとは思う。だけどね」
弟は少し言いにくそうに続ける。
「僕も一度だけ、あいつのようにどうしてもってそちらに行きたいと思ったことがあるんだ」
「そうなの?」
初耳だった。
「うん。中等部になる時、サッカー部に入りたくてお母さんにそう言ったんだけど、そんな野蛮な部に入るのは反対だって言われてね」
「全然知らなかったわ」
「うん、それだけ話してやめてしまったしね」
弟が苦笑いする。
「決して自分がプロの選手になれたとは思えないけど、それでもね、あの青春時代に自分の思いを一度でも通していたら、今頃どうなっていたかなと考えることはあるんだ」
私はそんなことを考えたこともなかったので、弟の告白に心底驚いていた。
「後悔してるわけじゃないよ?」
弟は戸惑う私にそう言う。
「お母さんが示してくれた地図は完璧だった。姉さんと僕がその道を迷わず歩いたこと、それに満足してくれているし、正しかったと思ってる。だけどね、あいつにはその地図よりも、自分の中の羅針盤が示す道が正しかったんだよ」
「自分の中の羅針盤?」
「うん」
弟はずっと遠くを見ながら続けた。
「あいつはそれに従って歩き続けた。そういう物を持つ人間は、それを止めることができないんだろうね。それに従って進めば、もしかしたら破滅が待っているかも知れない、そう思っても歩き続けることしかできなかったんだろう」
自分の中の羅針盤。
私はもう一度心の中で繰り返す。
私の中には地図しかなかった。そして妹にはそれがあった。
「うん、それだけの違いなんだよきっと」
弟は自分の中に封印した羅針盤を懐かしむようにそう言って、後は口をつぐんでしまった。
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