キャベツ畑と牧の間で

鍋谷葵

キャベツ畑と牧の間で

 糞尿の臭いを含んだ鼻に着く牧の冷たい朝闇の秋風が、そおっと窓の隙間から吹き込んでくる。

 マットレスと羽毛布団の間に挟まれる僕は体を丸める。体を丸めて、憂鬱な朝の目覚めから逃れる。

 けれど、現実逃避が長く続くことは無い。

 僕がしなければならないことは朝早くからしなければならないことだし、ここで仕事をさぼったのならば僕は僕自身の家業を捨てなければならない。

 親から受け継いだやる気のない稼業とはいえ、僕はこうして農業を糧に生きている。牧と農地の間に挟まれた小さな家の中で、ひっそりと生きている。静かな場所で、虫の羽音と鳥のさえずりを聞いてゆっくり生きている。

 こうするとスローライフのように思えるかもしれない。

 ただ、純粋な農業において生計を立てている生活は非常にハードだ。池袋に住んでいた時はそれなりに遅い時間に起きて、息苦しくて人工的な臭いが籠る満員電車に乗って、新宿のオフィスに行き、仕事をして、その逆を繰り返していれば良かった。

 だけれど、今の生活はそういう訳にも行かない。

 朝早くから起きて、畑の作物を見て回って、適当な措置と収穫をしなければいけない。時には除虫剤をかけて虫を払って、時には鎌とスコップをもって雑草を畑から除かなければならない。全てが億劫で、面倒くさくて体に応える仕事だ。

 日中は肥料を蒔いたり、水をやったり、土の手入れをしなければならない。良い作物は、良い農地からしか生まれないから。そして、良い作物でしか良い人間は育たない。

 これらの作業は非常に体に応える。

 三十代半ばで、働き盛りの僕だけれど、そんな人間の体を農業は酷く痛めつける。毎日金苦痛は取れないし、腰は立つ度に軋んで痛む。同時に受け取れる金銭も生活してゆくための最小限しか受け取れない。それは僕が努力を怠っているわけじゃない。いや、それは生産の努力を怠っていないだけで、稼ぐための努力を怠っているから努力を怠っているとも言えるか。

 けれど、僕はやっぱり努力を怠っているとは言いたくない。

 だから、僕はベッドから体を起こして、建てつけの悪い窓を思いっきり開ける。ヨーロピアンな装いも、和風の厳かな施しもなされていない極々工業的なステンレスとガラスで出来た窓は酷く冷たい。

「やっぱり臭いな。引っ越そうかな?」

 金属とガラスの工業的な冷たさは、いの一番の声を工業的にしてしまう。

 しかし、やらなければならないことは有機的なことだ。

「やろう……」

 ふうっと、牧の空気を肺に入れて、僕は部屋の扉を開け、キッチンに向かう。そして、口を水で漱ぎ、喉を潤し、ジャムのサンドイッチを食べて、パジャマから土汚れたオーバーオールに着替える。

 さて、タオルを頭に巻いて、軍手を着けて、夜明けを待たずに土を触ろう。

 僕のキャベツたちが待っている。

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