第2話
私の願いは簡単に砕け散った。
六歳の冬頃、養護施設の前に置き去りにされた。
突然だった。
その日のことは今でも鮮明に覚えている。
初めて食卓にケーキが置かれた。ホールケーキではなく一人分の小さなショートケーキだ。
それが今私の目の前に差し出されている。
今までそんなことされたことなかったため疑問と驚きでしばらく顔が硬直していた。
母は私の顔を見ずに「今日はあなたの誕生日だから」と無愛想に言った。
ロウソクは立てられていなかったがその代わり
『六歳の誕生日おめでとう』と書かれたプレートが立てられていた。
岩のように硬くなった心が微かに揺れ動いたのが分かった。それくらい衝撃的だった。
母は「早く食べなさいよ。あなたのなんだから」と言って黙々と箸を進めている。
「ありがとうございます」と小さく礼を言い、
ショートケーキにフォークを通し生クリームを掬った。おそるおそる口の中に含むとクリームがあっという間に溶けて甘く優しい味が口いっぱいに広がった。何かを口にして味を感じることができたのは初めてかもしれない。
無我夢中で口いっぱいに頬張り、ものの数分で平らげてしまった。
そんな私を母は無表情のまま見ている。
「そんな急いで食べると喉に詰まらせるわよ」
それだけ言うと立ち上がりお風呂場へと消えていった。私は耳を疑った。
あまりにも突然の出来事に母の言動が理解できなかった。
その時、母の瞳が微かに揺れていることに私は気付かないふりをした。
その後のことはハッキリと覚えていない。
気がついたら私は施設のベッドで眠っていた。
目の前には母以外の人間が私を安心させるように柔らかく微笑んでいる。
その瞬間私は悟った。
あぁ……、捨てられたんだ。
やっと辛い毎日から解放される。
こんなに喜ばしい事はない。
しかし、私の求めていた現実はこんなことではなかった。
いつか母に頭を撫でてもらいたい。
母に優しい瞳で見つめられたい。
あの日窓から見えた仲睦まじい家族のようにお互いのことを大切に想いあっている、そんな家族になりたい。それが私の唯一の願いだった。
昨日の出来事がはるか遠くの記憶に押し込まれていく。
ほんの少しだけ期待したんだ。
会話こそ何もなかったが唯一母が私の為に用意してくれたケーキだったから。
無愛想で目も合わせてくれなかったが
『あなたの誕生日だから』と言ってくれた。
たった一言だが私にとっては十分すぎるほどの愛情だった。
それなのにこんなにあっさり捨てられて辛い日々が終わるのなんて想像もしていなかった。
この瞬間、岩のように硬くなった心に分厚い鎖が巻きついた。
二度と動かないように。二度と何かを期待しないように。
◇◇◇
『辛い日々が終わった』
なんてどの口が言えたのだろうか。
終わったのではない。
ここからが本当の地獄の始まりだったのだ。
母から受けていたのは言葉の暴力。
言わば精神的暴力だ。
それが唯一の救いだったのかもしれない。
小学校に上がってからは周りに馴染めないのと施設育ちということからイジメの標的にされ、
『ブス』『死ね』などの言葉の暴力に加え、殴る蹴るの肉体的暴力まで受けるようになった。
しかし、どんなに酷いことをされようと泣けなかった。それがなにより辛かった。
中学校卒業後は全日制の高校には行かず、通信制の高校に通い、なんとか高卒までの学歴を得ることが出来た。
現在は派遣社員として事務職で働きながらなんとか一人で生きている。
このままでいいのだろうか。
ふとそんなことを思う時がある。
だが、それに対しての答えは出ない。
この先の未来で自分が笑っている姿を想像することができなかった。
今までの人生で心から笑ったことなんて一度もない。それゆえ笑い方が分からない。
人はどういうことで笑い、どういう風に笑うのか。
どんな相手と笑い合い、喧嘩し、寄り添いあうのか誰か教えて欲しかった。
この先も何事もなくただ月日だけが過ぎていく。
そう思っていた。
ある朝、テレビを付けて食事をしていると最新のニュースが流れた。
とある山奥の別荘で男女の遺体が発見された。
近くで散策をしていた老人が別荘から火が出ているのを発見しすぐに通報したことで火は消し止められたが女性の方は煙を多く吸い込み、搬送先の病院で死亡が確認され、男性は刃物で腹部を刺されておりその場で死亡が確認された。
このような報道が流れてきた。
自分には関係の無い話なので流すように聞いていると亡くなった二人の顔写真がテレビに写し出された。
その瞬間、掴んでいた卵焼きが床に落ちた。
写し出された女性の顔は忘れたくても頭の奥までこべり着いて離れない。
ずっと忘れたかった。自分を苦しめた母親なんて、自分を捨てたあの女のことなんて今すぐ忘れたいのに。どうして今更私の前に現れるのだ。
気分が悪い。私を罵るだけ罵って勝手に捨てて、今更遺体となって現われて。どこまで勝手なのだ。
怒りの感情が湧いているのではない。
もちろん悲しみの感情もない。
ただ冷静にそう思っただけだ。
ニュースを見終わった途端、激しい脱力感に見舞われた。
特に体調が悪いわけでもないのだが、今日はなんとなく会社に行きたくなくて体調不良というベタな言い訳をして休みを貰った。
何をする気も起こらず、ベッドに横たわったまま気がつけばお昼を過ぎていた。
何か口にしないとと思い、体を起こすと突然携帯の着信音が響き渡った。
驚いて画面を見ると知らない番号が表示されている。おそるおそる通話ボタンを押し、耳に携帯を当てると少し低めの男性の声が聞こえた。
「初めまして。
私、警視庁捜査一課の渡辺と申します。」
電話に出て後悔した。
何故警察から電話がかかってきたのか、心当たりは一つしかないからだ。
もう私が娘だということを特定したのか。
どうやって?母と私を繋げるものなんてあるばずがない。
「警察が私に何か御用でしょうか?」
電話の奥で軽く咳払いをする声が聞こえる。
「実は昨日、とある山奥にある別荘で火事があり、その建物から男女の遺体が発見されました……」
心臓が高鳴った。
やはり警察は私が娘だということを特定していた。
そして一度遺体を確認に署まで来て欲しい。
そういう内容だった。
正直関わりたくなかった。
母がどんな死に方をしようと今の私には関係ないからだ。
しかし、この電話で渡辺が気がかりなことを言っていた。
焼け残った別荘からある写真が沢山出てきたと。
その事も含めて話をしたいと言っていた。
数日後、私は重い足を引きずりながら警察署へ足を運んだ。
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