第3話
重苦しい、壁一面を白で覆われた空間。
白い蛍光灯が部屋の中をより一層薄暗く見せていた。
私は今、警察署内の遺体安置室にいる。
その真ん中に女性が眠っていた。
電話をくれた渡辺という警察官が女性の顔に掛けられている白布をゆっくりと捲った。
その瞬間、頭からつま先までが凍りつき、その場に立ち尽くした。
そこに眠っているのは確かに母だった。
しかし、その姿は私の知っているものではない。
顔は何度も重ねて殴られたような痣がいくつもあり全体的に腫れて歪な形をしている。
目を背けたくなるような姿だ。
乾ききった喉が上下に動く。無意識に握りしめていた拳に汗が滲む。
「念の為、ご確認します。
この方はあなたのお母様でお間違いないですか?」
私の顔を伺うように静かに尋ねてきた。
「……、はい。間違いありません」
引き締まる喉でなんとか声を絞り出した。
先程から震えと冷や汗が止まらない。
この現象が何故起こっているのかは自分でも分からないが強いて言うならば恐怖だ。
人の顔や頭の形が変形している姿なんて見たことがない。いや、普通だったらこんな経験をすることなんてありえない。
一体、母に何があったのだ。
心に巻きついた鎖を解けと言わんばかりに小刻みに震えている。
「あの……、母に何があったんですか?」
渡辺はゆっくりと首を振った。
「まだ捜査中でハッキリとしたことは私達も分からないんです。
ただ今回亡くなった眞島瑛二という男性は私達も顔見知りでして……」
私は首を傾げた。
「眞島は昔、女子大生を中心に性的暴行を繰り返し何度も警察沙汰を起こしていたレイプ魔だったんですよ」
目を見開いて驚いた。唇が震える。
「母もその中の被害者だったんですか…?」
渡辺はまたも首を横に振る。
「調べてはみましたが、当時の被害者リストの中に藍沢さんの名前は見つかりませんでした。
しかし、性被害を受ける女性の中には誰にも話せず警察にも被害届を出せない方が多いんです」
「じゃあ……」
渡辺は私を真っ直ぐに見つめ、小さく頷いた。
「藍沢かおりさんはもしかすると眞島の被害者だったのかもしれません。
眞島が事件を繰り返していた時期、藍沢さんは丁度二十歳くらいだったでしょうし、十分あり得ると思います」
私はその話を聞き、またゆっくり母の方へ視線を移した。
「そうですか」
なんと言っていいのか分からなかった。
それを聞いて母に対する見方が変わることはない。
私を苦しめたことに変わりはないからだ。
「それで今日はある物を藍沢さんに見せたくてわざわざ来て頂きました。
先日お電話でお話させて頂いた写真の件です」
「……、はい」
その言葉を聞いて私の体に緊張の糸が張り詰めた。
◇◇◇
渡されたダンボールはかなり年季が入っており所々破けてガムテープで固定されている。
それをリビングテーブルの上に静かに置いた。
あの後、取調室に連れていかれこのダンボールを受け取った。
「こちらの中身は全て確認させていただきました。ですので持ち帰っていただいて結構です。
あなた方親子にどのような過去があったのかは分かりませんが、こちらの遺留品はあなたに返すべきだと判断しました」
そう言って渡辺はこのダンボールを私に渡した。
家に持ち帰ったはいいものの、なかなか開けられなかった。
これを開けてしまうと自分の中にある何かが爆発しそうで酷く怖かった。
それからしばらくはテーブルの上に置いたまま放っておいた。
なんならこの先も開けようと思わなかった。
だがある日の休日、リビングの掃除をしている際にテーブルにぶつかりダンボール箱を床に落としてしまった。
その瞬間、入っていた物が無造作に零れ落ちた。
今日まで目を背けていた物が辺り一面に散らばっている。
私は崩れ落ちるように膝をつき、床に座り込んだ。
一枚一枚をゆっくり拾っていく。
そこには眠る私の隣でにこやかに笑っている母の姿が写っていた。
どの写真を見ても私は眠っていてその隣で母が幸せそうに時に悲しそうな笑顔を浮かべていた。
夢の中で見ていた母と同じ笑顔をしている。
現実ではこんな顔一切見せてくれなかった。
写真を漁っていると一通の封筒が顔を出した。
写真は黄ばんで色褪せているものが多い中、この封筒は真っ白で紙質もしっかりしている。
その上には『幸へ』と書かれていた。
指先が冷たい。体が震える。
幸とは私の名前だ。
おそるおそる封を開けると中に手紙が入っていた。
静まり返った部屋に唾を飲み込む音が響く。
『幸へ
お母さんです。
突然こんな手紙を書かれても迷惑なことは分かっています。
だけどこの先何が起こるか分からないから、ここに私の全てを綴ります。
あなたのことは尋常でないほど厳しく育てました。あれは誰がどう見ても虐待でした。
それでもそう育てなければならない理由があったのです。
正直に言います。
あなたは望まれて出来た子供ではありません。
私は大学生の頃、ある男から性被害に遭いました。
ある男とはその頃レイプ魔として騒がれていた眞島瑛二です。
私は眞島に襲われたことを誰にも話すことが出来ませんでした。
そして誰にも話せないまま、数ヶ月が経った頃体に異変を感じたのです。
病院で検査を受けると妊娠していることが分かりました。
吐き気がする程気持ちが悪かった。お腹を切り裂いて今すぐあなたを体から追い出したかった。薄汚いレイプ魔との間にできた子供なんて憎しみでしかない。
しばらくは誰にも言えませんでした。
ですが、月日と同時にお腹は徐々に膨らんでいき、隠し通すことができなかった。
意を決して両親に全てを打ち明けると二人は私を汚れたものを見るかのようにして家から追い出しました。お金もない、行くあてもない。
このまま何処かで死んでやろう。
そう思った時、微かにお腹が動いたのです。
あなたが微弱な力で一生懸命私のお腹を蹴っていました。
「死なないで」そう言われているような気がしたのです。愛おしかった。この子だけが私の味方。
そう思えた。
私はお腹を抱えて泣きじゃくりました。人目を気にせず大声であなたを抱えて。
そして決めたのです。この子だけは何があっても私が守ると。
夜の仕事をして必死にお金を稼ぎ、一人であなたを産みました。
産まれてきたあなたを見て涙が止まらなかった。
やっとできた私の家族。
あの夜襲われてからずっと独りぼっちだった私にできたたった一人の家族。
胸の中で静かに眠るあなたをそっと抱きしめました。
それからの日々はとても幸せな毎日でした。
何もかもが初めてで子育てと仕事の両立ですごく大変だったけれどそれを忘れさせてくれるあなたがいてくれたから頑張ることができました。
その幸せがずっと続いて欲しかった。
そう思っていたのにある日突然、私が働いていたお店にあの男が現れたのです。
私は全身に鳥肌が経つほどの嫌悪感と恐怖を感じました。
なんせ眞島は私のことを覚えていたのですから。
その頃まだ幼かったあなたを店に連れてきていたため急いで抱え、店を飛び出しました。
それがいけなかったのです。
私に子供がいると分かった眞島は頻繁に店を訪れるようになりました。
そして私にこう告げたのです。
「お前の娘が大きくなったら俺に貸せ」と。
眞島は自分があなたの父親だと言うことにも勘づいていました。その上で娘を抱かせろと言ってきたのです。
その瞬間、目の前にある幸せが砕け散っていく様が見えました。この男に幸は渡さない。
必ず守り抜いて見せると心に誓ったのです。
あなたが言葉をしっかり話すようになり、周りの行動や言動がある程度理解出来るようなった時期から私はあなたに厳しい教育を始めました。
あなたの泣き叫ぶ声を聞く度、あなたが泣いて謝る姿を見る度に胸が張り裂けそうでした。
今すぐ抱きしめてあげたかった。
厳しくしてごめんね…と私の方が謝りたかった。
でもまだ若かった私はそんな風にあなたを傷つけることでしかあなたを守れないと思っていました。
いつからかあなたは泣かなくなったね。
全てを受け入れるように泣きもせず口答えもせずただ言われたことを淡々とこなすようになった。
私があなたの心を壊してしまった。
笑えない、泣けない心を作ってしまった。
本当にごめんなさい。
せめて最後くらい母親らしいことをしてお別れしたい。そう思い、六歳の誕生日に初めてケーキを買いました。
喜んでくれるだろうか。
最後に微かでも笑ってくれるだろうか。
あなたの前にケーキを置いたらとても驚いていましたね。
「あなたの誕生日だから」と言うと微かに瞳が揺らいだのが分かりました。
そうだよね、今までこんなことしてあげたことがなかったから驚いたよね。
初めて食べるショートケーキ、とても美味しかったのね。表情には出ていなかったけれど口いっぱいに頬張ってすぐ無くなってしまったね。
その姿があまりにも可愛くて愛おしくて涙が零れそうになるのを必死に堪え、私はお風呂場へと逃げました。
最後にあなたと過ごせた。可愛らしい姿を見れた。それだけで私の人生は幸せでした。
そしてその夜、あなたに睡眠薬を飲ませ、施設の前に置き去りにしました。
とにかくあの男があなたの居場所に気づかないように、近づかないようにする。その事だけを考えていました。
最後まで傷つけ続けてごめんなさい。
私があなたにしてきた全てを許してくれなんて言いません。むしろこんな最低な母親を一生恨んで欲しい。
ただ一つだけ、お願いがあります。
どうか、幸せになってください。
どんなに些細なことでもいい。
あなたにとっての幸せを自分の手で掴んでください。
幸、私の娘に産まれてきてくれてありがとう
母より』
手紙の端がグシャグシャッと音を立てる。
全身は凍えるように震えているのに身体中が燃えるように熱い。
今まで感じたことのない痛みを感じている。
心が大きく揺さぶられ、私はその場に蹲り頭を抱え悲鳴のような呻き声をあげた。
頭がかち割れそうだった。
今まで封じていた心。
憎い、辛い、苦しい、悲しい、寂しい……
会いたい、会いたいよ……、お母さん。
手紙を読んで気がついた。
どんなに厳しくされようと母は一切手を上げることはなかった。
熱が出た時は一日中看病をしてくれた。
包丁で指を切った時は怒りながらではあったが絆創膏を丁寧に貼ってくれた。
悪い記憶ばかりが上書きされ今まで忘れていたが、思い返せば酷いことをされ続けたわけではない。
分かりずらいが、母は私に不器用な愛情を注いでくれていた。
それに気づいた瞬間、岩のように硬くなった心が一気に砕け落ちた。
私は悲痛とも言える声をあげ、しばらく泣き叫んだ。
それでも涙が出ることはなかった。
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