泣けない私に流れた一筋の光

一堂 蒼李

第1話

私には感情というものが存在しない。

仕事で高く評価されようと喜びの笑みを浮かべることはないし、他人にきつい言葉を投げかけられても悲しみの涙を流すこともない。

その原因は幼い頃の家庭環境にあった。


私はいつからか泣けない体になっていた。

泣かないんじゃない、泣けないんだ。


物心ついた時から勉強机に座らされていた。

母が隣で腕を組み私を睨みつけている。

「違う!!どうしてそんなこともできないの!!!」

怒鳴り声が耳の奥の心臓まで響き渡る。

思わず耳を塞ぎそうになる手を雑に払われる。

漢字の書き読み、敬語の使い方、数字の計算など普通は小学校で習うことを私は三歳の頃から母親に叩き込まれていた。


三歳児の手はまだ小さい。

幼い私に鉛筆は大きすぎた。正しく持とうとしても手が言う事を聞かず文字を形にすることで精一杯だった。するとまたもや怒声が響き渡る。

「きちんとお手本を見なさい!!!

どこにもそんな汚い文字は書かれていないでしょう!!!!」

首根っこを掴まれお手本の前に顔を押し付けられる。

「ごめんなさい……。だって……「は?だってなによ?自分はまだ小さいからって?

三歳だから出来なくて当たり前じゃないかってそう言いたいの?」

私は泣きながら必死に首を振った。

「違うよ!そうじゃなくて……」

「じゃあ、なんなのよ。上手い言い訳ができるなら言ってみなさいよ!!!」

母は目線を逸らせないよう私の首を掴んだまま上半身を起こし無理矢理頭を持ち上げた。

母の威圧的な、目の奥が冷めきっているような酷く冷たい目が私の身体を硬直させる。逸らしたくても逸らせない。また怒鳴られる。私がちゃんとしないから。泣くな。泣いたら余計お母さんを怒らせる。

そう思えば思うほど意思とは裏腹に大粒の涙が溢れ出てくる。

「ごめ...、ごめ…なさい……」


ある程度言葉の読み書きが出来るようになると今度は敬語の使い方、それに加えて料理や洗濯、掃除の仕方まで全て叩き込まれた。

そこから更なる地獄が始まったのだ。

今までの勉強に加え、一日一冊の分厚い本、そして朝から料理に洗濯に掃除をやらされる。

母はそんな私を鬼のような形相で睨みつけ監視し、何かある度に悲鳴の様な怒声を家中に響かせる。

私の心と体は疲れきっていた。

母が買い物に行くと言って家を空ける時が唯一の休息時間だった。

このまま帰ってこなければいいのに。

閉め切られたカーテンの向こうで笑い声が聞こえる。普段は開けることを決して許されないのだが、母がいない時間はこっそり窓の外を覗いていた。

外では父と母に挟まれ手を繋いで楽しそうにはしゃいでいる女の子とその姿を微笑ましそうに見つめる両親の姿があった。

幸せそうな家族。

あんな風に大切そうに子供を見つめる親もいるのだな。

手を繋いだり抱きしめられたり頭を撫でられたことなんて一度もない。

あの子が羨ましくて堪らない。

なぜ子供は親を選べないのだろう。

窓の外を眺めながら私の頬に一筋の涙が伝った。


◇◇◇


五歳になる頃には精神が瀕死状態に陥り感情というものが無くなっていた。

どんなに怒鳴られようと泣かない。口答えもしない。何を言われようと心に痛みを感じなくなった。

いや、感じているのだが脳が痛みと認識していなかった。楽だった。辛いと思わずに済むからだ。

私の様子が変わっていくのに気がついたのか母も私に対する態度が徐々に変わった。

その頃も小さなことで怒られはしたが怒鳴り声をあげる回数が減っていった。

私も母の言うことをそつなくこなすようになった。


よく泣き叫んでいた頃は毎晩のように同じ夢を見ていた。

母が寝ている私の頭を大切なものに触れるかのように優しく撫でている。

現実では見たことがないほどの優しい眼差しでその目には涙が溜まっている。

いつもその目でその手で抱きしめてくれる。

だが、眠りが深くなるにつれ暗闇に引きずり込まれ朝のアラーム音と共に目を覚ます。

その繰り返しだ。

それゆえ早く眠りたいとも思うし眠りたくないとも思っていた。

早く眠ると優しいお母さんに会うことが出来る。

だが、眠りが深くなると地獄の明日がやってくる。

毎日眠りとの戦いもあった。


私は心の片隅で密かに願っていた。

いつか夢の中のような優しいお母さんになってくれるはずだ。今はあんなに厳しいお母さんでもいつかきっと私のことを心から愛してくれるはずだ。

だってお母さんにとって私はたった一人の娘なんだから。いつか会いたい。夢の中のお母さんに。

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