第11話
床の間には赤富士双鶴の掛け軸がかけられている。パパはこの掛け軸を有難がって、いつも、両手を合わせて何かを念じている。
それを見て、ママは「掛け軸にそんな真似をしても意味がないでしょ。仏壇に手を合わせなさい」と諭す。だが、パパは開運の秘術だと力説して譲らない。
その甲斐あってなのか、床の間の前に碁盤を置いて、夢野君と佐々木君が対坐している。夢野は尊い掛け軸に尻を向けて座っている。
「ただで対局するつもりはない。負けた方が何か奢るのはどうだ?」と夢野君が念を押すと、佐々木君は思案深げな表情をして、こう告げた。
「元来、金儲けは神聖だ。人から何かを騙し取ろうとする人間がいつまでも栄えたためしがない。さらに、囲碁の対局に臨んで、賭け事と同一視するなど、あってはいけない」
「おいおい、理想と現実は違う。常に頭の良い方が勝ち、戦果を手中に収めるだけだ」
「君の意見は尊重する。囲碁では、八百長は駄目だが、賭け事は良いとは考えない」
「なかなか、うまい表現だ。『八百長』も『駄目』も囲碁が語源だと知っていたか? 今日の対局は、君に僕の知力に対して一目置かせるための良い布石だと思うね」
「とにかく始めよう」
「よし、後悔しても知らないからな。腕前の違いを見せてやろう」
僕は碁盤を使って五目並べならした経験がある。オセロゲームもそうだ。いずれも、僕の方が強くなると周囲の大人は、僕との対局を敬遠するようになった。今更ながら、あまり広くもない四角い板の上で知力を競い合うのに滑稽な印象を感じる。それで、勝ち負けを決めて喜んだり、悔しがったりする。
囲碁の石の並べ方は、僕の知っているどんなゲームとも違う、囲碁とは陣取り合戦だ。動物は本能的に自己のテリトリーを守ろうとする。つまり知力だけではなく、動物的な勘が働く方が強い。「岡目八目」という言葉は囲碁に由来するが、二人の対局には当の本人には気づかない心癖が見える気がする。
呑気者の夢野君と、商売人の佐々木君が、どういうわけか今日に限って碁盤を引っ張り出すと、勝敗を決めようと意気込んでいる。
「夢野君、君の碁は型破りすぎる。いきなり、そんなところに置くものではない」
「妙手奇手を編み出すのは、僕のような男だ。予定調和は、好むものではない」
「しかし、そんな手では僕に打ち負かされるだけだ。すぐに死ぬだけだ」
「明日に紅顔あり、夕べに白骨となる……と、まあ、誰でもそうだ。恐れてはいられない」
「そう来たか? 天の時は地の利に如かず……、どうだ? 僕の勝ちだな」
「さあ、どうしたものかな。蟻の思いも天に届く……、よし、こうしよう」
「あっ、そこは困る。冗談だろ? それをされると、僕の方が死ぬ」
「だから、言っただろ? こんなところに置くのは、定石通りでも何でもない」
「それは失礼したな。この白を除けてくれないか」
「そこは、譲れないな」
「ついでに、隣の石も除けてくれないか」
「勝負にならないだろ? 無気力試合は対局に値しない」
「友人は、助け合うものだ。人が困窮しているときこそ、救いの手が必要だ」
「じゃあ、除けるのは今回だけだぞ」
「いやいや、囲碁もよろしく、なんてな」
「そんな馬鹿な。さっきまで三度、待ったに付き合った挙句、負けそうになると石を除けろと要求するのは、あまりにも厚かましいぞ」
「君も実業の世界に身を置けば、はっきりと分かる物の道理だ。もっとも、記者でも平社員の身分では想像も出来ないがね」
「経済は人・物・金で動いている。この三つのうちで人が主人だ。人でなしが物や金を扱うとろくな展開にはならない」
「理屈はどうでもよい。早くどけた方が身のためだよ」
「しかしこの石を殺さなければ、僕の勝ちは確定しない」
「君は勝ち負けにこだわらない性分じゃ、なかったのか」
「僕は潔い男だが、君のような男には勝たせたくない」
「大した境地だよ。竜のひげを蟻が狙う……か」
「電光影裏斬春風だ」
「それなら、諦めるしかない。到底、君には敵わないよ」
「身心脱落、脱落身心」と、夢野君は、思わぬところへ石を置いた。
床の間の前で、夢野君と佐々木君が一番勝負を競い合っていると、周囲には翠明君、頑迷君とパパが並んで座り、様子を見ている。翠明君の前にエメンタールチーズが二つ置かれている。ラップに包まれているが穴あきチーズである。僕はチーズを持ち歩いている人にあった体験がないため異様な光景に見える。
大抵のチーズは要冷蔵品であるため、常温で持ち歩くのは適さない。パパと頑迷君は怪訝そうな表情でチーズを眺めている。翠明君は二人の視線を感じたのか、口を開いた。
「実は十日間ですが、スイス旅行を楽しんできました。欧州原子核研究機構に行く用事が出来たので、しばらく向こうに滞在し観光もして来ました。同じ時期に購入したのがこのチーズです。今日は、このお土産を頓馬さんにお渡ししたくて急いで訪ねました」
「そんなに慌てて来なくて良い」
「穴の開いたチーズじゃないか? それはネズミが齧るから開く穴だそうじゃないか」
「スイスの名産品ですよ。そんな非衛生的なものは売っていませんよ。それにネズミはチーズを食べませんよ」
「君はスペンサー・ジョンソンの『チーズはどこへ消えた?』は読んだか? ベストセラーになった本だ」
「ええ、まあ」
「あれは、二匹のネズミ、スニッフとスカリーと、二人の小人、ヘムとホーが迷路の中に隠されたチーズを探しに出る物語だ」
「随分、よく覚えていますね」
「物語では、チーズを見つけたネズミと小人は腹いっぱい食べていた」
「あれは寓話ですよ。スペンサー・ジョンソンは、イソップやアンデルセンと同様に教訓を含んだ物語を書き、それが評判になりベストセラーになったのです。何度も言いますが、ネズミは穀物や果物は食べますが、チーズのような乳製品は食べませんよ」
「腐ったりしていないか」
「空港で購入したもので、スイスからのフライト時間は十二時間でした。まだ、大丈夫だとは思いますが……」
頑迷君は真面目な表情で「イギリスの作家G・K・チェスタトンは、チーズに関するエッセイの中でソネットまで書いています」
「チェスタトンは、『ブラウン神父』シリーズの推理作家だろ? チェスタトンがエメンタールチーズを賞賛しているのか」と夢野は碁を打つ手を止めて、話しかけてきた。
「残念ながら、チェスタトンが賞賛したのはスティルトンチーズです。別のものですよ」
「チーズはおからよりも旨いのかね。エメンタールや、スティルトンであろうと、おからの炒め物には勝てない。なんせ、素浪人・花山大吉の大好物だ」と、また夢野君が碁をそっちのけにして揶揄っている。
「気を取られて、無駄口を叩くと負けるぞ」とパパは夢野に注意する。夢野は平気な調子で
「弱敵には考える時間、つまりハンディキャップを与えてやらないと勝負自体があっという間に終わる」と返答すると、パパは「ウサギとカメの例えもある。居眠りしていると追い抜かれるぞ」と応じた。
佐々木君は、少しむっとしたように「次は君の番だ。待ちくたびれたよ」と言い放った。
「なるほど、そこに打ったのか? こっちはどこに打ったらいい。佐々木君、良い案があれば教えてくれないか」
「そんな碁はありえない。真剣勝負ではなかったのか」
「仕方がないな。ここに打とう。それより翠明君、エメンタールチーズに合うワインがある。今度、持ってくるから楽しみにしてくれ」
「ぜひ、お願いします。ワインは、ウィリアムフェーブルシャブリでしょうか」
「ご明察だ。君は博識だ。見どころがある」
「何だ、君は? さっきは、おからの炒め物と比べてどうだと言っていた。今度はチーズやワインの講釈を話す。花山大吉の食の嗜好とも明らかに違う。そもそも、君の話は出鱈目ばかりだ」
「僕は思考が柔軟だ」
「僕なら、君のようなお喋り男と碁を打つのは最初からお断りだ。しかも、相手に考える時間を与えすぎている」
「佐々木君が僕に手も足も出ないから、ハンディキャップを進呈している」
「人を甘く見ていると怪我をするぞ」
「佐々木君は実業の世界で、艱難辛苦を経験しただけあって度胸だけはある。碁の実力はないものの、敬服するよ」
「君のように落ち着きのない男は、少し見習った方が良い」とパパが言い終わるのと同時に夢野君は舌を出した。佐々木君は無頓着に「次は君の番だぞ」と、また早く打つように促した。
「僕もギターを始めようと思うが、かなり難しそうだね」と、頑迷君が翠明君に尋ねている。
「演奏は誰にでも出来るよ」
「同じ芸術でも、僕は詩歌や戯曲のような文芸趣味だ。音楽となると、上達するまでに時間がかかる」
「君なら、多分早く上達する」
「いつごろから、練習を始めた?」
「高校時代だよ。軽音楽部でリードギターを担当していた」
「なるほど、高校時代に部活の顧問や先輩に教わって、マスターしたのか」
「顧問や先輩は細かくは教えてくれない。ギターの教則本を買って、受験勉強の傍らで毎日二時間練習した。大学時代は練習時間を三時間に増やしてマスターした」
「まったく天才だね」
「独習で七年間も時間をかけて、やっと人前で演奏して褒められるようになった。天才とは言えない」と、翠明君は素っ気なく答える。
天才と呼ばれて、喜ばないのは翠明君だけだ。
「どういう風に独習で、君のようなレベルになるのか教えてくれないか」
「参考になるかどうかは分からないが、それでも良いのか」
「ああ頼むよ。ぜひ、教えて欲しい」
「何か面白そうな話が始まった。そろそろ、碁を打つのは切り上げないか佐々木君?」
「いや、もうあと二、三手で僕の勝ちが確定する。今、やめる気がしない」
「それなら、君に勝利を献上しよう」
「勝利は自分で勝ち取るものだ。貰うわけにはいかないよ」
「夢野君は注意散漫だ。君の想念感情は乱れに乱れか」
「僕は想念や感情で碁を打ってはいない。囲碁は思考能力の勝負だよ」
「それだから、直感が働かない」
「今回だけは、頓馬君の意見に賛成だ」
「君に賛成を求めてはいない。佐々木君は金で何でも解決できる男だ。こう見えても、僕は漢気がある方だ。夢野君の味方をしている」
「頓馬君は、僕の本質を理解できている」
「そういう意味じゃない。弱いものの味方をしている」
「僕は君が思うような弱い男ではない。それより、翠明君が独習でギター演奏が出来る秘訣に興味がある。ライブハウスでも人気があるそうじゃないか」
「お世辞はもっとうまくないと、揶揄されている印象しか残りませんよ。嬉しい気がしません」
「何、石を全部数えろと指示するのか? 計算しなくても、僕の負けは確定している。それより、僕は翠明先生の音楽に関するエピソードを聞こうとしているところだ。物理学者のアインシュタインはヴァイオリン、マックス・プランクはピアノの名手だった。翠明君のギターの腕前も素晴らしい。碁を打っている場合じゃない。碁石は、君が数えてくれれば良いよ」
「夢野君は雑談に夢中になり、死んだ石を放置したまま、生きた石をうまく使わないから劣勢の僕に負けた。勝負事は夢想家よりも、僕のような実業家の方が強い。それが今、証明できたわけだ」
佐々木君は、碁石の数を数え終わると得意げな様子だ。
「君たちの打つ碁は、ザル碁だ」
「夢野君は別として、僕は緻密に勝利に導いた。そこは認めて欲しいね」
「佐々木君が僕に勝つとは思わなかった。一回限りの偶然に過ぎない。まぐれだと思うよ」
「往生際が悪すぎるよ」
「囲碁の勝ち負けなんてものは、大きな価値ではない。人生に大事なのは他人を打ち負かす闘志ではなく楽しむ心構えだよ」
「僕も夢野さんの意見には賛成です。人生の目標は、人を愛する事。芸術を楽しむ事。この二つだけですよ。この二つに比べれば他のものは色あせて見える」と、頑迷君は真面目な表情のまま翠明君の方を向いた。
「素晴らしい理論だと思う。だけど、僕はなかなかそんな心境にはなれない」
「家庭でも築けば、もっとそんな心境にはなれなくなるよ」と、パパは難しい表情をした。
「ともかく、僕のような独身者は芸術に触れる経験で、自分の人生を開拓していく。人生の意義を知るために翠明君に音楽の経験を聞いているのです」
「そうだった。翠明先生のエレキ物語を拝聴する話になっていたね」と、夢野君がようやく気づくと「人間の向上心は、ギター演奏などで啓発されるものではない。実業の世界のように現実生活に貢献する者こそ評価されるべきだ。そもそも遊びが世界を改善した事例があったものか」と佐々木君は訓戒を宣う。
頑迷君は浮世離れしているから、実業の本質を言われても感心している様子はない。
「うーん、どうでしょうね。芸術のない世界は、殺伐としたものになるでしょう。人間の生活では、毎日のように芸術に励まされ、慰められ、そうして生きていくことが出来ます。心の価値としては不変のものですよ」
「頑迷君がそこまで願うのなら、僕のギター体験を話すよ。ただし、僕は天才ではない。練習の苦労は大変だった」
「天才とはエジソンのように努力の人だ。秀才と違うのは、謙遜する心がけを知っているところだ。君はやはり天才だよ」
「また天才か。天才と持ち上げるのは、やめてもらいたいね。エレキギターはアンプとスピーカーに繋ぐことで大音量を響かせるサウンドの魅力と、格好良く弾ける点だ。僕の担当するリードギターは、主旋律を気分よく演奏できるので最高だよ」
「やはり、優れた感性がないとアーティストにはなれない。どう見ても天才肌だ」と頑迷君はますます感心している。
「いや、僕は自分では素人に過ぎないと思っている。バンド活動を本業にするつもりはない。サウンドの魅力に、憑りつかれているだけだ」
「エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、彼らはミュージックシーンを演出してきた真の天才たちだ」と、佐々木君が訳知り顔に持ち出したが、誰も取り合わなかったのは気の毒だ。
「僕が毎日のように楽器店をうろついているうちに、見つけたのがギブソン・レスポールだった。店内でエアロスミスの名曲『ウォーク・ディス・ウェイ』を聞いて、それまで感じた体験がないほど感動した。メンバーのジョー・ペリーがレスポールを演奏していると聞いて、何度も手に取って眺めたよ。このギターだけは手に入れたいと心の底から思ったね」
「随分、古い曲だけど、よくそんな曲がかかっていたね。君の感性に響いたのか? 君はやはり天才だ。そうでないと、初めて聞いた曲にそこまで感動できないよ」と、頑迷君は何度も羨ましがっている。
「今でこそ平然と話せるけど、苦しみは想像を絶するものだった。当時はお金も練習する時間の余裕もなかったけど、どうしても欲しかったので手に入れた」
「ふーん、どうして?」
「僕が欲しかったギターは、二十五万円もする。親はお金を出してくれないどころか、受験勉強の邪魔になると言って猛反対された。そこで、毎週土日にアルバイトをして、やっと買えた」
「アルバイトまでして、手に入れたのか」
「そうなのだよ。他に方法がなかったからね」
「本物の天才だ。驚いたな」と、夢野君も恐縮している。
パパは翠明君の話にまったく興味がないのか、立ち上がって自室に行ったかと思うと、赤茶けた学術書を持って来て、腹這いになり黙々と読み始めた。
佐々木君は碁石や碁盤を片付けている。
翠明君の自慢のエピソードも、時間がかかりそうなので一人、二人と減って、後は文芸家の頑迷君と、呑気者の夢野先生だけとなる。
「これから、話が面白くなるところですよ」
「僕は君がどうやって、ギターをマスターしたのか早く知りたい」
「エレキギターを買ったものの、どう演奏すれば良いのか分からない。見れば見るほど、複雑に出来ている」
「そりゃ、アコースティックギターよりは複雑に出来ている」
「まず、六弦のチューニングの仕方が分からない。さらに、ペグ、ナット、フレット、ブリッジ、ボリューム&トーンノブ、ピックアップ、ピックアップセレクター、アウトプットジャックなどの各部の名称と使い方が分からない。基本的なコードもコード進行も分からない。それで僕は困惑した」
「何度、聞いても天才だ」と、相変わらず褒める頑迷君を横目に見て
「いや、全く偏執狂のようだ。意味が分からない」と夢野君が付け加えた。
学術書から顔を上げたパパは「早く演奏の仕方を話したら良い」と急かす。
佐々木君は、退屈のせいなのか何度も欠伸をしている。
「有難いことに、弾くときはギター用ピックを使うので、右手の指が痛まないことを知りました」
「左手の指は痛むだろ。それに、枝葉末節のように聞こえるよ。僕は、どうやって上達したのかが知りたい」
「もう少し待ってください。今やっと序章が終わったばかりです。急に説明しても意味が分からないでしょう?」
「勿体ぶらなくても良い」
「最初にエレキギターを手にしたときは嬉しかったのですが、演奏自体が未知の領域です。ドキドキしながらも、うまく使いこなせるかどうか怖くて仕方なかったですね」
「天才にして繊細。いかにも、ありがちだ」
「茶化さないでくれ」
「それから、ギター教本を見ながら毎日練習したよ。受験勉強の合間だから多忙を極めたね」
「ご苦労だ」
「努力こそ、近道ですよ」
「もし練習に近道があるのなら、頑迷君に教えてやってもらいたい」
「あくまでも、僕の場合……ですが、ジミ・ヘンドリックスやポール・マッカートニーのような左利きのギタリストのミュージックビデオを見てコード進行を覚えていきました」
「あれ? 君は左利きだったか」
「違う、僕は右利きだ。ギタリストが左利きの方が、鏡を見るように真似が出来る。だから、そうした」
「君みたいな学問にも趣味にも多忙多彩な人間が、恋愛でもご令嬢のハートを射止めている。羨ましい限りだよ。禁酒せざるを得なくなるのも分かるな」
「禁酒ですか、あ、ははは、禁酒はもうしなくても良いのですよ」
「それだと、結婚できなくなる。先方の条件にも合わない」
「結婚というのは、僕の一件ですか」
「玉田令嬢との件だ」
「うーん、どうかなあ」
「婚約したのだろ」
「いいえ、婚約はしていません。向こうが勝手に言いふらしているだけです」
「おい夢野、君もあの件は覚えているだろ」
「ああ、大きな顔の女が大きな顔をして訪ねてきた、巨顔事件だ。あの内輪の話、つまり秘密の出来事は、世紀の大事件として万人が知っているよ。今や誰も知らない者がいないほどだ。僕の家にも問い合わせが殺到しているよ。事件のせいで、禁酒を強要されたら翠明君が可哀そう過ぎるよ。そう思うだろ? 頑迷君」
「夢野さんが言う、大顔事件と翠明君の一件は、いずれ戯曲にして公表するつもりです」
「そら見ろ、君の禁酒宣言と大顔事件は、万人が興味を持つほど影響力がある。説明してくれないか」
「ご心配をおかけして済みませんが、もう禁酒はしなくても良いのです」
「どうしてだ?」
「僕には、もう妻も子もいるのです」
「全く知らなかった。いつの間に結婚した? 油断も隙も無い。頓馬君、今聞いた通り、翠明君は親友の僕らに内緒で結婚式を挙げていた」
「挙式はまだですよ。それに、子供は妻のお腹の中にいます」
「いつだ?」と、パパは刑事のような口調で尋問する。
「妊娠に気づいたのは、スイス旅行の前です。それで入籍し、旅行に出かけました」
「玉田の令嬢はどうする?」
「どうするつもりもありません」
「不義理だ。なあ、夢野」
「むしろ、喜ばしい。出会いは世の中のどこにでも転がっているよ」
「玉田には断ったのか」
「あそこの娘は友人の一人に過ぎません。交際期間も短いし、僕の方で嫁にくれとか、婚約の打ち合わせとか、まったくしていません。先方が言い出したのです。今時分、興信所調査が完了して、向こうには伝わっていますよ」
「禁酒宣言は、何のためにした?」
「それも、誤解ですよ」
「玉田の誤解夫人の軽挙妄動が招いた事件だな」
「誤解や失敗は、歴史上の偉人にもよくある」と、佐々木君だけが玉田の味方をする。
「何だ? 君は元々、玉田や生意気なご令嬢様の味方だからあてにはならないが、意見だけは聞いておくよ」
「英雄ナポレオンは、初めてコーヒーを出された時に、毒を盛られたと思って捨てた。それともう一人、我らが幕末維新の英傑、勝海舟は九才の時に犬に睾丸を噛まれて大怪我をして以来、犬嫌いになった。犬を見るとガタガタと震えだした」
「大顔さんや、ご亭主、生意気なご令嬢は、歴史上の偉人とは言えない。天地の差がある。買い被りも良いところだよ」
「諸先輩方や頑迷君は、僕の結婚について批判的に思われます。僕は、逆に何とも感じません。何故でしょう?」と、翠明君が不思議そうに尋ねる。
「そりゃ、君は結婚したばかりだからな」と、夢野君が自分の解釈を堂々と言う。すると、パパは突然、厳しい意見を言い始めた。
「所帯を持って、女を善良だと思っていると大変な事態になる。俺が面白い話を聞かせてやろう。是非、傾聴してくれ」
「はあ、そうですか。参考にさせてもらいます」
「君はソクラテス、モーツァルト、トルストイの共通点は何だと思う?」
「俺は、前にも同じ話を耳にした」
「謎々ですか? 三人とも禿や薄毛だとか」
「モーツァルトは禿げていない」
「正解を言うと、三人とも悪妻を娶っていた」
「いや、驚いたね。偉人の悪口を言うのなら、君の奥さんも悪妻に数えた方が良いね」
「夢野君、少し黙ってくれないか」
「へえへえ、分かりやした」
「ソクラテスの妻・クサンティッペは、夫に反抗的で家事をこなさなっただけではなく、罵詈雑言を浴びせた後でソクラテスの頭から水をかけた。どう思う? 翠明君」
「何か、特別な事情があったのでしょう?」
「それはどうかなあ? じゃあ、モーツァルトの妻・コンスタンツェはどうか? コンスタンツェは、無類の浪費家だった。どう思う?」
「どうって……、どう答えたものでしょう」
「トルストイの妻・ソフィア・アンドレエヴナに至っては、文豪トルストイを追い詰めて家から追い出したほどだ」
「僕は君の悪妻物語には懐疑的だ。物事はそうシンプルには出来ていない。それに、今の話は新郎新婦に対して贈る言葉の花束としては最悪だ」
「いや、そういう意味ではない。僕が言いたかったのは、女は強く、逞しく、賢いから侮れない。自分の妻だからといっても、立場や意見を尊重しなければ後悔する」
「君にしては名演説だ。僕の意見を代弁してくれて有難う。ここで感謝しておくよ」
「ですが、独身の僕にとっては、耳の痛い意見ですよ」と、頑迷君は哀切な表情をしている。
「頓馬さん、もう充分です。それ以上、悪妻、愚妻の話を拝聴するのはどうかと思います。さすがに、気が滅入るのです」
「僕は、まだまだ言いたい」
「そうそう、君の奥さんも隣の部屋で耳を澄まして聞いているよ。ねえ、奥さん」と、夢野君が大きな声で呼びかけたものの、返事がない。
パパは「妻が聞いていても、構わないよ。僕が責められる謂れはない」と、どっしりと構えている。
その時、ドアをバタッと開けて、無言のまま大きな足音がしたと思ったら、高良史郎君が顔を表した。
高良君はキートンの最高級スーツを着込み、ピンホールのワイシャツの襟にアルマーニのネクタイを締めている。腕時計はロレックスのヨットマスターだ。いつになく洒落た装いであるものの、全く似合わない。右手には、年代物のロマネコンティを二本ぶら下げている。無造作に酒瓶を置くと、挨拶もしないでどっしりと腰を下ろした。
「頓馬さん身体の調子は、どないですか? 家に籠ってばかりいるから、あかんのですわ」
「まだ良いとも悪いとも、言っていないだろ」
「言わんでも分かりますわ。しんどそうな顔してはりますがな。そやから、分からん訳がない。身体の心配もやけど、金欠症も重症と違いますか? 何や、僕には貧相に見えますねん。近頃は山登りが楽しいです。そら、空気がええんですわ」
「どこの山に登った?」
「神戸の六甲山ですわ。ほんまにええ山です」
「そこまで行く必要があったのか」
「僕が子供のころに、よう登ってました。小中学校時代は親のクルマかロープウェイですわ。英気を養うのに最適ですねん。マイナスイオン、フィトンチッド、オゾンの健康効果は知ってますやろか」と、誰彼を問わず話しかける。
「僕はオリンポス山で神話の神々に謁見し、覚えめでたく後の人生を安泰に暮らしたいね」と、夢野君が冷やかす。
「エベレスト山上に、さっさとケーブルカーで登れないものですかね」と、翠明君がとぼけて見せる。
「文学者は夢想家の集いですな。常識ちゅうもんが、分からへんのとちゃいますか」
「僕は科学者です。文学には疎い方です」
「ほんまですか? 僕のようなビジネスマンは常識がないとあきまへん。そやないと人付き合いもでけへんのです」
「するとどうなる?」
「酒でも、発泡酒や数百円のワインばっかり飲んどったら、箔が付かへんのですわ。ほんまに……」と話しながら、ロマネコンティの瓶を大事そうに撫で始めた。
「金遣いが荒いのは感心出来ないな。そう潤沢に金が回り続けるものではないだろ」
「金みたいなもんは、どないでもなりますわ。上等の服を着て、いっつも高級酒を飲んでるさかい、信用もついてきますねん」
「浪速の商人は考えが違うね。僕もビジネスマンだが、金をいつ失うかとびくびくし、節約して使っている。君とは真逆のスタンスだ」と、佐々木君が異を唱えた。
「翠明君がおならの研究をするより、楽に信用が築ける。手間もかからないし、馬鹿にされない」と、夢野が翠明に言うと、翠明が答える前に、高良君は
「あなたが翠明さん、やったんですか、玉田の令嬢をもらわんそうで……。そやから、僕がもらうんです」
「令嬢をですか」
「実は翠明さんには気の毒や思てます。玉田社長にもろてくれ言われたんで、僕の嫁にするようになったんです。頓馬さん、ほんま翠明さんには失礼した思て、気になってたんですわ」
「僕に気兼ねする必要はない。むしろ、ほっとしました」と翠明君が答えると、パパは「貰いたければ、貰うべきだった」と、どっちつかずの返答をする。
「これは、これは、おめでたい話しだ。たとえ、どんな娘でも貰い手があるのは、世の中のお転婆娘たちにとっても福音と言える。こんな実業家の立派な紳士がお婿さんだ。良かった、良かった」と、夢野君がいつものように調子づくと高良君は
「誰か、この中で楽器の演奏が出来る人は、いてませんか」
「何故、それを聞く?」
「僕らの結婚披露宴に来て、何か演奏して貰えませんやろか」
「なるほど、そういう話か。お転婆娘のお婿さん候補から落選した翠明君はギターの名手だよ。しっかり頼んでおくのが大事だ。言っておくが、安く使えないよ。タダだと僕も承知しない。何が出来る?」
「そやなあ、どないしましょ?」
「僕は、お金を受け取るつもりはないし、特に何もいらないよ」
「そない、言わんといて下さい。それやったら食事でもご馳走させて貰いますわ」
「夢野がああ言ったからといって、気にしなくていい」
「何だ? そこのワインは……」
「頓馬さんへのお土産ですねん。て、言うか、皆さんで飲んでくれたら、ええと思てます」
「俺にくれたものだ。勝手に決められても困る」と言いながらも、パパはママに命じて人数分のグラスを持って来させた。パパ、夢野、佐々木、翠明、頑迷の五名は畏まってグラスを手に取ると、高良君の成婚を祝った。
高良君は上機嫌で「ここにいる皆さんを、僕たちの結婚式に招待しよう思てます。出てくれますよねえ」と、全員を見回した。
「俺は行く気がしない」とパパが即答した。
「何でですか? 僕の一生に一度のおめでたい日ですわ。出てくれへんやなんて、あらへんでしょ。出てくれるのが人情ですやろ」
「俺は人情家だが、出たくない」
「洋服があらへんのやったら、僕がなんぼでも用意しますわ。有名人もようさん来るさかい、頓馬さんを紹介しますよ」
「面倒くさい。やなこった」
「披露宴で美味しいもんを出す予定です。頓馬さんには特別、ようさん食べてもらいたい」
「ご馳走なら、毎日のように食べているから、出なくても差し支えない」
「意地を張らんでも、よろしいやろ。しょうがないなあ。ほな、あなたはどないです。来てくれますやろか」
「僕か? 是非行かせてもらうよ。それが可能なら、媒酌人として出席したい。――なに、なに、仲人は永野無明君だって? あの男よりは、僕か佐々木君の方が適任だ。まあ、決まったものなら仕方がない。僕は賓客の一人として、披露宴のご馳走を堪能するよ」
「ほな、あなたはどないですか」
「僕はつまり、酒者可呑酒可飲、人生只有酒開胆、酔中快楽人無知、大地為蓐天為衣、英雄生涯真乎夢、厭迄呑酒酔美姫」
「何ですか、どんな意味ですのん。漢詩か何かですかねえ」
「何だったか忘れた」
「忘れたんは困りますわ。ほな、翠明君は出てくれますやろか? 今までの経緯もありますやろ」
「出ますよ。レスポールのギターを抱えて行きますから、演奏を楽しみにしていて下さい」
「そらあ、楽しみですわ。頑迷君は、どないします?」
「そうですね。僕は新郎新婦の前でお祝いの詩を朗読したいです」
「こりゃ、ほんまに楽しい。頓馬さん、僕は生まれてから、今日ほど楽しいと、思うた日はないんです。ほな、もう一本ワインを開けますわ」と、自分で持参したワインを開栓するとグラスに注ぎ、ぐいぐいと飲み干した。
日が暮れて肌寒くなったので、秋の夜長を家で過ごすために、呑気な連中も席から立ち上がり始めた。
「気が付いたら大分、長居したな。そろそろ帰らないか」と佐々木君が周りに声をかけた。「僕も帰る」
「俺もだ」
「そやなあ」と口々に玄関から外に出て行った。大宴会が終わった後のように家の中は静まり、寂しくなった。
パパは自室に戻り、ママは応接テーブルの汚れを布巾で拭き取り片付けている。僕は先に風呂に入った。
楽観主義者だと思える人物でも、心の奥深くに悲しみを抱えている。乱暴者は実は人一倍、傷つきやすい精神構造が表面化したケースがある。悟ったような善人でも、時には迷う。僕が観察したところ、単純に見える人物でも実に複雑に出来ている。
夢野君は気楽な性分だが、思うに任せぬ展開もある様子だ。翠明君はおならの研究を断念したころに大学の同級生との縁談が進み、新生活をスタートしている。まずはうまく事が運んだが、いずれ所帯やつれするのが分かる。頑迷君も数年もすれば文芸趣味を中断して、サラリーマン生活の多忙と退屈の両面をやり過ごす存在になる。 佐々木君は要領よく世渡りし、小成を遂げていそうに思える。
高良君は世渡り上手だが、お転婆娘とうまくやっていけるかどうか予測できない。やっかいなのは、玉田君だ。玉田は直接攻撃ではなくリデル・ハートの間接アプローチを地で行く戦略で、相手が弱体化するまで攻撃を仕掛けてくる。もう、次の攻撃対象を見つけて虎視眈々と狙い始めているのである。
僕の誕生日は三月三十一日だ。四月一日から幼稚園に入園し年少クラスでお絵描きやお遊戯を習う。僕にとっては文字通り幼稚なものなので、退屈しないか心配になってくる。昨年のうちに見学会や説明会に出向き、願書を提出している。
人は急激な変化を好まない。だから、僕も三歳になり未知の世界・幼稚園に飛び込むのに酷く不安を感じている。子供は天使だと褒めちぎる人がいる。実は二歳児の僕には真実が明確には分からない。大人たちに比べると、無益な殺生を好まず、人から如何にして愛されるかという術を心得ている僕らは、天使に近い存在にも思える。
僕ら二歳児は自分の欲得の為に人を裏切りはしない。
新約聖書、マタイ十八章一~六節に幼子に関する記述がある。「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた。『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる』」。
僕ら二歳児は、聖書の記述どおりなら天使のような存在だ。天使のように、弱い立場の者に優しい手を差し伸べる能力は、他ならぬ人間に与えられている。この世に生を受けたのは、感謝すべきだ。
一方で、年齢を重ねるたびに、世渡りを覚え、奸智に長けた大人へと成長していく。自己保身のために、自分と周辺への利益誘導を優先するため、対立する他者や弱者を冷遇したり、排斥したりする術を覚えていく。青雲の志も正義感も力を持たず、理想と現実との空隙を埋める努力をしなくなる。
僕は次第に成長し大人になり、やがて年老いていく。それが、苦しいのか楽しいのか、見当もつかない。
僕らの世界では、AI、ロボット工学、ナノテクノロジー、アンチエイジング、宇宙開発など人類が神のような力を手に入れつつある。ブレインやマインドの優れた人間が大勢出て来ている。一方で、僕はハートが失われて行きそうな恐ろしさを感じている。
テストに間に合うように記憶した内容を紙の上に再現する能力は、人間の能力の一部に過ぎない事実は証明されつつある。さらに、未来を切り拓くのが、創造的知性なのは知っているつもりだ。
知性や知識がある大人たちは敵対しあい、相手の力を奪うのに夢中になり、阿修羅のように闘争する世界を構築してきた。僕に言わせれば、人々が平和に幸福に生きるには、幼子のような純真なハートにこそ価値がある。
これから、僕は未知の領域・幼稚園に進む。小中学校、高校、大学と進学し、社会人になる。僕が、偉人と肩を並べる存在になれるのか、汚れくたびれてボロ雑巾のように死んでいくのか、平々凡々たる人生をただただ生きていくのか、人生行路は見えてこない。それが可能なら、成長とともに、人間的な進歩を遂げたいと念じている。
二歳児の独り言 美池蘭十郎 @intel0120977121
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