本文


【プロローグ】



 愛食あじき愛喜楽あきらはやる気がない。

 それはもう、致命的なまでにやる気がない。


 春の陽気がポカポカと満ちる平日の朝のこと、布団にくるまりながら微睡むアキラは思った。


 ――あー、この世界今すぐ爆発しねぇかなぁ……。


 そしてこうも思った。

 もし明日、世界が滅ぶと分かったら、俺は何をするだろう――と。


 たぶんアキラは何もしない。

 きっと、昨日と同じような一日を過ごす。いつもと何ら変わらない、怠惰にだらけきった生産性皆無の一日を。


 その時、部屋の扉がバーンッ!と勢いよく開いた。


「せんっぱいっ! 一体いつまで寝てるんですか! さっきもう起きるって言ってましたよね!?」


 怒りの大音声をぶちまけながら部屋に飛び込んできたのは、制服姿の小柄な少女。


 窓から差し込む陽光をキラキラと照り返す銀色の髪、透き通るような白磁の肌、パッチリと開いて澄んだ二つの瞳に殺気を込める彼女の名前は――白鳥しらとり天音そらね


「いい加減起きてください! 学校遅刻しますよ!」


 天音そらねの叱咤に、アキラは「ふっ」と笑みをこぼした。彼は布団から顔を出し、天音を見上げる。

 その淀んだ瞳にはバイタリティを思わせるような光が一切見受けられない。しかしながら、アキラの顔立ちは恐ろしく美形であった。

 全く以ってタチが悪い。

 アキラに向ける浮ついた話で盛り上がっていた同級生の女子たちを思い出して、天音は頭が痛くなる。


 アキラは言った。


「おいおい天音、この俺が今更そんな遅刻程度でビビると思ってんのか?」


 へらっとバカにしたような笑みを浮かべるアキラ。天音の額にピキィッと青筋が刻まれた。


 天音は思った。


 ――あぁ、そうだった。確かに私がバカだった。


 そう。コイツはそういう男なのだ。


 高校を、三度目の高校一年生として今を生きるこの男は、怠惰の権化とでも言うべき怠け者。今更遅刻の一回や二回で動じる訳がない。


「大体さ、俺が遅刻しようが学校休もうが天音が損する訳じゃないんだし、別によくね? うん、よし。何も問題ないな。ということで俺はもう一度寝まーす」


 まるで悪びれた様子もなく、再び布団を被り直すアキラ。天音の額に刻まれた青筋が、一層深くなる。

 ゴゴゴ……ッと、そこらの人間や悪魔であれば一目散に逃げだしそうなほど凄まじい怒気を立ち昇らせる天音だったが、その程度の威圧で布団から出るアキラではない。


 天音がアキラと知り合ったのはたったの一週間前。それでも、この愛食あじき愛喜楽あきらという男がどういう存在であるかくらい、こうして間近で見続ければ分かることはある。


 最初からこうしておくべきだった。

 天音は静かに腕を振って、虚空から光輝く剣を抜いた。


 天音が剣を振るう。

 幾重もの剣閃が瞬き、風が吹き荒れ、アキラが繭のように纏っていた布団が粉々に切り刻まれた。

 衝撃に吹き飛ばされて机の脚に頭を打ち付けたアキラは、剣先が掠めて裂けた頬から血を流し、くぅぅ……と頭を抱えながら床を転がる。


 底冷えするように冴え渡った殺気を発する天音は、アキラの喉元に剣を突きつけた。

〝天光〟と呼称される特殊な物質で生成された刃の先端が、触れてもいないのに、ジリジリとアキラの皮膚を焦がしている。

 

「あー……、あの、その……、天音、さん」


 頭と頬の痛みを堪えながら、そろそろと両手を挙げて部屋の隅に後ずさるアキラ。天音は静かな足取りでアキラを追従し、その喉元から剣先を離さない。


「先輩」


 静かに告げる天音。その顔は真顔である。


 アキラは引きつった笑みを浮かべた。「天音はもっと笑った方が可愛いと思うんだけどなぁ、俺」


「先輩」


「あ、はい」

「私は今ここで、先輩の存在をこの世から消し去ることだってできるんです」

「……でしょうね」

「先輩がまだ生きていて、毎日ご飯を食べられて、温かい布団で眠ることができるのは、ぜんぶ私のおかげなんです」

「天音の作ったご飯ってほんと美味いよね」

「そんなことは今聞いてません!」

「せっかく褒めたのに……。あ、お世辞とかじゃなくてマジで言ってるからね俺」

「だから話を逸らさないでください! 今、私は真面目な話をしてるんです!」

「つまり?」

「私は何も、先輩のために先輩をこの家に置いてあげてるわけじゃないってことです! 私は私のために、〝魔法少女〟として責任を持って先輩を監視するためにこんなことをしてるんですよ! だから先輩だけをこの家に残して私が学校に行くなんてことはあり得ません。先輩を一人にしたら何するか分かったもんじゃないですから!」

「えー……、俺そんな変なこととかしないってば」

「どちらにせよ、先輩のその堕落しきった生活習慣は見過ごせません!」

「いやぁ、そう言われてもですねー。あっ、そうだ。だったら天音も学校サボればいいんじゃん。そうすれば天音はずっと俺と一緒にいられるし、俺も――」


 得意げな顔で滔々と語り始めたアキラに、天音は自分の頭の中でブチッと何かが切れる音を聞いた。


「――先輩ッッ!!」


 天音の怒号が部屋を揺らし、思わず耳を押さえたアキラの頭上を光の刃が掠めていった。






「痛い痛い痛い! 天音そらねさん痛いですっ!」

「だったらちゃんと走ってください! 誰のせいで遅刻しそうになってると思うんですか!?」


 アキラの首に付けた光輝くリードを、天音が引っ張って走っていた。

 まるで病院に行くのを嫌がる犬を無理やり引きずる飼い主のような絵面だが、大方間違っていない。


「ちょっと天音さん!? 人間に対して行っていい所業じゃないっすよこれ!?」

「私はまだ先輩を〝人間〟として認めてませんから!」

「えぇ……、ちょ――ッ。痛い! 痛いって天音!」

 

 街中にて、首に巻き付けた光のリードに引きずり回される男子高校生と、そんな彼を引きずり回している女子高校生。

 道行く人々はその光景を見かけてもちろんドン引きしている訳だが、中には天音に向けて朗らかな反応を見せる者もいる。


「魔法少女のお姉ちゃーんっ! この前は助けてくれてありがとーっ!」


 両手を万歳する童女に、完璧な笑顔で手を振り返す天音。


〝魔法少女〟とは、皆の希望である。

 魔法少女の仕事は、何も悪魔の退治だけではない。悪魔を産んでしまうような人の心に根付く闇を根本から照らしてこその――魔法少女だ。


 そんな魔法少女が、学校に遅刻するなどあり得ない。

 そう。登校中に〝悪魔の発生〟でも起こりさえしない限り――――


「――――」


 ――その悲鳴を、天音は聞き逃さなかった。


 全身埃だらけで傷だらけのアキラを引きずり、T字路を右に曲がりかけた天音が急激なブレーキをかけてターンする。


「グェ゛――」


 首輪で全ての衝撃を受け止めることになったアキラが、潰れたカエルのように鳴いた。





 駅前には、叫喚が飛び交っていた。


「悪魔が出たぞ――ッ!!」


〝ソレ〟から少しでも距離を取ろうと、通勤や通学中の人たちが逃げ惑っている。

 野太い怒鳴り声や、子どもの泣き声、数多の叫び声が重なって溢れ、その場に混沌が渦巻く。


 人の群れは雪崩のように勢いよく、轟々と流れる。

 一人の女性が「あっ」と声を上げた。女性と手を繋いでいた幼い少年が、人混みから弾き出される。

 少年はバランスを崩し、突き飛ばされた勢いそのままに――


「――っとぉっ。びっくりしたぁ……」


 人の流れに逆らうように悠々と歩いていたその人物が、進行方向に倒れ込んできた少年を咄嗟に受け止めた。


「っ……。ありが――」


 礼を言おうと視線を持ち上げた少年の顔が固まる。

 そこにいたのは、全身が埃と砂で薄汚れた長身の青年。なお、彼の頬や手は擦り傷だらけであり、何より異様なのは、その首に巻き付けられた光輝く首輪とリードである。


「す、すみませんっ!」


 人混みから抜け出してきた焦り顔の女性が少年に駆け寄り、抱きしめる。

 青年を見上げた女性が、少年と同様に表情を固めた。

 

 伸び切った灰色の髪は寝癖と思しきボサボサのうねりをそのままに、爽やか端正に整った顔立ちの爽やかさを淀んだ瞳が掻き消している。

 どことなくダウナーで気だるげな色気を滲ませる〝彼〟は、へらっと力の抜ける笑みをこぼした。


「怪我はないかー、少年。あとお姉さんも」


「――」


 彼に見惚れていた女性がハッと我に返る。


「え、あっ、と、は、はいっ! あ、あの。ウチの子を助けて頂いてありがとうございました」


 女性が頭を下げて、少年の背中を叩く。「ほらっ、お礼」


「あ。お兄ちゃんありがとう!」


「おう」


 彼は少年の頭に手を置くことで、それに応じる。


 ワッ――という大勢の声が重なって響いた。


 その時、〝ソレ〟の存在を思い出したように、女性が慌てて振り返った。彼女の視線が、人々が必死に離れようとしていた根元に向けられる。

 

「あぁ、アレならもう大丈夫だと思いますよ」


 自身の首に巻かれている光の帯を撫でながら言って、彼もまた〝ソレ〟がいる場所へ目をやった。


 駅前の広場に、ぽっかりと人のいない空間が生まれていた。

 そこに立つのは二つの影――大きな影と小さな影である。


 大きな影の姿形は獅子ライオンに近い。

 筋肉が隆起した四肢、刃のような爪、鋭利に尖った剥き出しの牙。背には蝙蝠のような羽が四対伸びており、一般的なライオンの二倍はあろうかという巨体は毒々しい紫色をしている。


『オレの言うことに逆らうなァ˝ッ! サカ――逆らうナ˝ァ˝!  ァ゛ア゛ア゛――ッ゛! オレの――オレをぉ˝――っ!』


 ぐわりと広がった禍々しい口腔から吐き出されるはヒトの言葉。だが、そこに理性の色はなく、知性の気配もなく、ただただ似通った台詞を獣の鳴声めいせいの如く繰り返すだけ。ヒトの言葉を理解せずに覚えた鳥のようなモノ。


 否、獣や鳥に喩えるのすら彼らに失礼と言うべきか。

〝ソレ〟の喚きに込められるのは、あるいは〝ソレ〟という存在を構成しているのは、ヒトとヒトとが煮詰めに煮詰めた感情の淀み――罪と悪の成れの果てである。

 

「〝傲慢型〟か。そこそこデカいな」


〝悪魔〟――と。

 いつからなのかは分からない。けれどヒトはいつからか、〝ソレ〟を悪魔と呼んでいる。



「――皆さん、もう大丈夫です。ご安心ください」



 凛と澄み渡った声だった。

 悪魔が吐き散らす大声よりずっと小さい音量。だがその声は、悪魔に怯えて理性を失いかけていた人々に染み渡る。


 我先に、と――。

 傲慢に、強欲に、愚かに、利己的に、逃げ惑う人々を取り巻いていた黒い熱が冷め、彼らの心に希望が灯る。


 期待に満ちた視線を集めながら、彼女は――白鳥しらとり天音そらねは虚空から剣を抜く。

 天光で構成された刃が輝きを放つ。同時、彼女が身に着けていたセーラー服が光の粒子に変化し、白銀色のドレスに再構成された。

 シンプルなフリルで飾られたスカートの裾がはためき、彼女の腿を包む純白のタイツが覗いた。

 

『オ――ッ、オ、レが正しいィっ! オレが! オレ、がァ! タダシイィッ! お前らがマチがっテるッ!! オレが正しいんダ! 間違ってナイ! オレが! オレが――』


「――――」


 天音がそっと剣先を持ち上げる。

 全体的に装飾が控えめな衣装ドレスの中で、最も華美に目立つ胸元の大きなリボンが揺れた。


『オレが! オレが! オレがァァ゛ア゛ア゛――ァ゛ッ゛!!!!』


 悪魔が脚を叩きつけ、舗装路が抉れた。加速し、顎を開いて、人体など容易に貫きそうな太い牙を天音に向ける。

 血色に染まった瞳孔――悪魔の象徴たる〝紅瞳こうどう〟が、天音を真っすぐ射抜いていた。


「――慈悲をあげます」


 悪魔を迎え入れるように踏み出した天音が、剣を振った。

 

 一閃。

 欠片ほどの躊躇もなく、光輝く刃が悪魔の首を両断した。


 悪魔の凶悪そうな頭部が宙を舞い、ドッスンと重々しく地に落ちた。


 ドクドクドクと滝のように、頭と胴の断面それぞれから液体が溢れ出している。液の色は、罪悪の膿のように濁った紫色だった。


 ――慈悲とは、何ぞや……。


 容赦なしに斬首された〝ある意味での同胞〟の無残な姿を見て、彼は哲学じみたことを考えてしまう。


 大歓声に包まれる天音を遠巻きに眺めながら、彼は――愛食あじき愛喜楽あきらは、こうも思った。


 俺のご主人様は、やっぱりおっかないなぁ……――と。





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②魔法少女のヒモ 青井かいか @aoshitake

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