【短編】神の思し召し

@kody24

第1話


 この辺りに越してきて三年ほど経つが、すぐ近所に喫茶店があるなどとまったく気づかなかった。

 裏淋しい路地に入って四軒目、レンガの小さな花壇にスモークガラスの壁、キイコーヒーマークのついた小さな看板、黒板に書いたメニューは擦れて判読が難しい。喫茶店ムスターファは昭和の趣のあるこじんまりとした店だった。

「いらっしゃい」

 ドアベルを鳴らして入ると、薄暗い店内に店主の他に客はおらず、どこかで聞いたことのある洋楽が静かに流れていた。

 カウンター奥に腰掛けていた店主は迷惑そうに眉間のシワを深くし、手にしていた文庫本を脇に置いてのっそりと立ち上がった。「好きなとこへどうぞ」口調は静かで、読書の邪魔をされて機嫌を悪くした様子はなかった。

 短く刈り込み生え際がだいぶ後退している髪には白いものが混じり、目元のシワは眉間のそれよりも深く多い。メガネの奥の目には気難しさを感じるが、眼差しは静謐なものだった。

 店の中はカウンター席が五つと二人掛けのボックス席が二組という外観通りにこじんまりとしていたが、狭いという印象はない。喫茶店にありがちな観葉植物の類がないからだろうか。ボックス席側の壁には棚が作られ、そこにはずらりと本が並べられている。それを見て目を見張った。(水木しげる漫画大全集じゃあないか! しかも全巻揃っている?)

 視線を転じてカウンターを見れば、メニューやシュガーポットの間を埋めるように文庫が並べられている。ざっと見て江戸川乱歩やラブクラフト、京極夏彦の名が並ぶ。

「どこでもいいよ、それとも帰るかい?」

 店主の声にボーッとつっ立っていたままな事を思い出し、ひとまずカウンター席に着いた。クッションの柔らかな回転椅子で座り心地は良かったが、背もたれがやけに低いのだけ気になった。もたれては腰を痛めそうだ。

 座った席のメニューはラブクラフトとチャンドラーに挟まれていた。(チャンドラー?)心中が表情に出たのだろう、店主が水を出しながら「知人が置いていったんだ。まだ読んだ事がない」バツが悪そうに呟いた。

「こっちは?」ラブクラフトを指す。「知人が置いていってくれた。まだ読み切れていない」注文を催促されたので、ブレンドとトーストを頼んだ。

 店内の音楽がはっきりと聞いたことのあるものに変わった。ずっと昔、ビールのコマーシャルで使われていた歌だ。

「“I was born to love you”だよ。Queen、知らないか?」

「確か何年か前に映画がやってた」

「好きでね。店の名前は楽曲から取ったんだ」

「ムスターファ?」

「好きなアルバムの好きな曲なんだ。Jazzってアルバムなんだが、そいつを店名にすると勘違いされかねない」

「違いない」

 コーヒーが出るまでの間店内を見回すと、年季の入ったレコードプレイヤーがあった。しかし肝心のレコードは回っていない。

「iPodの中のを流してるんだ。入れ替える手間が省ける。ゆっくりじっくり聞きたい時はレコードだ。聞くかい?」

 自他共に認める音痴なのでおそらく違いなどわからないだろうが、お願いした。「リクエストは?」と言われてもよく知らない。「さっきのビールの曲で」「ドラマの主題歌にもなってるんだぜ」そうなのか。ドラマも滅多に見ないからな。

 店主が針を置くとザザと小さなノイズがして、のちに先ほど耳にした歌が流れてきた。なるほど、確かに深みというか柔らかいというか、アナログという感じがする。その感想をそのまま伝えると「そんくらいわかってくれれば十分さ」と嬉しそうに笑った。

 小さなミルで手挽きして、ペーパードリップで淹れられたコーヒーは適度な苦味と酸味が好みの味だった。随分手間がかかるやり方だが、この店の規模なら十分なのだろう。トーストの方はまぁ、コーヒーに比べると特筆する所のないものだった。

「近くに住んでるのかい?」

 自分も淹れたコーヒーを飲みながら店主が尋ねてきた。「一応、すぐそこに」今日までここに気づかなかった事を伝えると彼は苦笑して肩をすくめた。

「商売する気あるのかってよく聞かれるよ。あればこんな所に店は構えない」ならば何か副業でもしているのか、あるいはこちらが副業か。

「ありがたいことにこんな店でも常連さんがいてね。その人たちのおかげで続いてる。その人たちのせいで続けざるを得ないとも言う」自分もその中の一人になる予感があった。

「仕事は何を?」

「未だ売れない物書きを。それだけじゃ食べて行けないからこの後バイトに」

「そうか。ジャンルは?」

「あえて分ければこの店に並びそうなもの」

「そうかい」店主は嬉しそうに目を細めた。

 レコードはCDと違って表裏があって、その都度自分で入れ替えなければいけない事くらいは知っている。店主が何度か針を置き直した中で、心に触れる曲があった。

「”Made in Heaven”だな、アルバムのタイトルにもなっている。俺も好きな曲だ」

「意味は?」

「神の思し召し」

 なるほど、運命論者ではないが今日ここに来たのはMade in Heaven だったのかもしれない。

 というような事を少しカッコつけて言うと、店主は顔をくしゃっとさせた。

「その割にはずっと縁がなかったみたいじゃあないか?」

「今後寄らせてもらいます。ごちそうさま、そろそろ行かなくちゃ」

「ありがとさん、いつでもどうぞ」

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