大学3年 コンビニ店内

 そこにいたのは、奈々その人だった。

 僕は、間抜けにも、自動ドアのセンサーの下で思わず立ち呆けた。それは、あの日の上野の美術館での光景がそこにあった。

 彼女は一点を真剣に見つめている。その瞳はまるで童子のよう。耳元に光るピアスは、月でこそないが、あの日と同じゴールド。それを見た僕は、あの日と同じように、彼女に見惚れた。ただ、彼女が見つめているのは、コピー機の液晶画面だったが。

 ぼーっと彼女を見つめていた僕が言えたことではないが、画面をただ見つめて動かない彼女は、異様であった。僕は正気に戻り、店員として適切な行動を取ることにした。

「あのー。どうかされましたか?」

 少し遠慮がちに、腰をかかめながら、やや画面を覗きこむように、僕は奈々に話しかけた。

「えっ、あっ、えっと……あ、美術史の」

「えっ、あっ、はい」

 二人とも、予想しない相手の行動に狼狽えていた。彼女は、意識の外から話しかけられたことに、僕は、彼女の記憶の中に僕があったことに。しかし、奈々は、すぐに平常を取り戻し、はにかみながら助けを求めてきた。

「宅配便の受け取りをしようと思ったんだけど、初めてだから、どこを押せばいいかわからなくて……」

「ああ、それなら、ここを押して……。お問い合わせ番号ある……ますか」

 店員、同級生、変な話しかけ方をした奴。色んな立場がぐちゃぐちゃになって、変な言葉遣いになってしまった。

「あるよ、これ。というか、なにその語尾。いいよタメ口で」

「……一応仕事なんで」

 恥ずかしくて、変に真面目な返しをしてしまった。我ながら寒い。

「真面目か」

 彼女は、僕の面白くもない冗談もけらけらと明るく笑ってくれた。その純朴な笑みに再び見惚れそうになりつつ、踏みとどまる。それとともに、僕は、体に不自然に入った力が抜け、標準的な人間のコミュニケーション能力を取り戻した。

「はい、これでいけるはず。あとはレジまで」

「ありがとう。助かったよ、茂木くん」

 不意に彼女に名前を呼ばれ、端末の画面に落としていた視線を上げ、思わず彼女の顔を見返した。

「え、なんで名前知ってるの」

「なにそれ、ベタなボケ?名札あるでしょ」

「うわー。ベタベタすぎて恥ずかしいわ……」

「それに、前から知ってたよ、茂木くんのこと」

「え?なんで?」

 僕には、全く心当たりがなかった。彼女の無邪気でまっすぐな瞳に惚れ込んだのは、あの日の上野が初めてだった。

「さて、なんででしょう。少し考えればわかるよ」

「嘘だ、奈々さんみたいな綺麗な人、店に来てれば気づくよ」

「名前知ってるのもきもいし、その歯の浮くような台詞もきもいね」

「いや、名前はこの前教室で呼ばれてたから」

「じゃあ、台詞のほうの一きもい残しだ」

「うるせえな。……あ、宅配の受け取りするってことは、家この辺なのか」

「当たり」

「でもやっぱり見た記憶ないよ、奈々さんのこと」

「君接客するとき、まったくお客さんの顔見ないもんね」

「うるさいよ」

「だいたいコンビニ来る時なんて、どすっぴんに眼鏡とマスクだし、わかんないかもね。」

 確かに、僕は人の顔をあまり見ない癖がある。それに加えて、まるで変装のごとき状態であれば、気づかないのも止むを得ないかもしれない。

「そんなに近所なら飲みに行こうよ」

 彼女と、初めてまともに会話した喜びで舞い上がっていた僕は、自分にしては、積極的な誘いをした。

「あー。いいよ。いつ?」

 彼女の前向きな返事にボックスステップを踏みそうになる心を押さえ込みつつ、飄々とした調子を装い答える。

「今日」

「え、今日?うーん、まあいっか予定なんもないし。君何時上がりなの?」

「二十二時」

「何ですか、その下心あふれる開始時間設定は。駄目です。」

「いやでも、本当に今日二十二時上がりなんだよ。」

「うーん……。」

 やばい、好機が逃げていく音がする。これを逃すと一生後悔しそうだ。僕は、奈々にちょっとだけ待ってて、と言い残すとバックヤードへ走り込んだ。

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