大学3年 初夏の神楽坂

 コンビニエンスストアの制服を着た僕は、店頭にある灰皿の水を交換するため、店外に出ようとした僕は、自動ドアの開扉とともに流れ込んできた、熱波とよんでも差し支えない空気によって少し店内に押し戻された。

 グラデーションという風情を、この国の季節たちは忘れてしまったらしい。5月に入ると陽気はもうすっかり夏と呼ぶに相応しいものになっていた。確かに、暦の上ではもう夏のようだ。中国起源ゆえに、日本における実態とは数週間ずれているはずの節気を、お天道様は健気に追いかけているようだ。どうせ夏の終わりには竜頭蛇尾の様相を呈するのだが。

 僕がアルバイトをするコンビニエンスストアでも、麺類の主役の座は、冷やし中華がラーメンに取って代わり、ビールの缶にも花火の絵が踊っている。

 就職活動のピークは、寒波とともに去りつつあり、僕もなんとか卒業しても食いっぱぐれずに済みそうな目処は付いた。ただ、今後数十年続くであろう社会人生活の最初の一歩として、自信を持てるほどのものは得られておらず、負荷は下げつつも就職活動を継続しているのだった。負荷を下げたとは言っても、今の僕にとって最大の懸案事項が、今後のキャリアであり、ぼーっとする時間があれば、頭をよぎるのは未来に対する漠然とした不安だった。

 灰皿に溜められた水に浮く吸い殻を見つめてると、そうした就職活動に関する不安とともに、奈々と呼ばれていた月のピアスの彼女のことを思い出した。頭脳があまり複雑な構造をしていない僕は、悩みは頭の中に一つくらいしか置いて置けず、彼女のことは、しばらく頭を離れていたので、不意にそれを思い出した自分に少し驚いた。ゴミの中でもそう綺麗でない部類に入る吸い殻を見ながら、彼女のことを思い出すのはなんとも失礼な気もしたが、彼女にとって、僕の第一印象はこの吸い殻に等しかったかもしれない。

「かわしー、おはよう。」

 背後から突然呼びかけられ、見るからに肩を震えさせて驚いてしまったが、川島、でも智樹、でもなく、かわしーというなんとも言えないあだ名で僕を呼ぶのは、今のとこ人生で一人しか出会ったことない。

「店長、おはようございます。」

「なんか異常に驚いてたけど、何サボってたの?」

「サボってないですよ。ちょっと物思いに耽っていただけです。」

 正直に答える僕に、店長は、それサボってんじゃん、とそこまで不快でもなさそうな笑みを浮かべながら店の中へ入っていった。店長からは、かわしーなどと親しげに呼ばれるが、この店で働き始めてからは、まだ、二、三か月しか経っていない。ちょうど採用試験が立て込んでいた時期に、今まで下宿のそばのコンビニエンスストアでアルバイトをしていたのを、よりスケジュールを合わせやすいように、大学に近めのコンビニエンスストアへと転職(?)したのだ。店長の飄々とした態度は、かえって新参者でも身構えずに接することができ、とてもありがたい。

 僕もいつまでもシケモクと見つめ合っている気はないので、店の脇にある排水溝に、吸い殻で茶色く染まった水を捨て、吸い殻をビニール袋に入れて、ゴミ箱へ捨てる。水を張り替えて、灰皿を元に戻し終えた後、ヤニの臭いにやや顔を顰めながら店内へと戻ると、就職で頭がいっぱいだった僕に、再び奈々のことを思い出させた原因がそこにあった。

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