大学3年 春の高田馬場

 地理的な意味で日本の真ん中にあるふるさとを僕は愛していた。三年前、僕は大学進学を機に上京して地元を離れ、Uターン就職という形で再び地元へ帰ることが決まっていた。上京したての頃は、文化・社会・経済、さまざまな意味で日本の中心にある東京という街のあまりにビビッドな光景に圧倒され、また同時に少し辟易していた。

 しかし、それから二年、Uターン就職が決まり、いよいよ東京から地元に帰ることが決まった今、僕には、仮の住まいに過ぎなかったこの地にも郷愁のようなものが湧き、JRの緑の高架を、ふるさとの山を見つめるような目で見つめた。

 たぶん僕が定年退職をする頃になっても、僕はこの大学生活に悔恨など残らないだろう。それだけ、自由には価値があった。友人と飲み明かし、朝の七時に眠りにつき、夕方の四時に起きた上で五限に遅刻することだってできたし、思い立ったら平日から当て所なく旅に出ることもできた(その結果の留年が、両親に許容されるかは別の話だ。)。時間的にも、肉体的にも最も拘束がないのが今であるとの確信があった。将来の僕は、石油王になれるか、大学二年生を永遠にくり返すことができるかを選べと言われたら迷わず大学生の方を選ぶだろう(それが三年生だったら考えものだ。忌々しき就職面接の数々をこなさなければならない。)。

 それだけ愛すべき自由に囲まれているとはいえ、時には束縛のさなかにあることもある。例えば、月曜日の朝から、大学へ向かい、授業に出席しなければならない場合だ。遅刻・欠席の常習犯の僕でも、評価方法がレポート百パーセントの授業のレポートを出し損ねるまぬけな真似はしない。ほとんど。いや、多くの場合は。


 大学へ向かうために乗車中の電車が徐行運転を経て、高田馬場駅に到着する。大学や専門学校、日本語学校が多く集まるこの街は、まさに学生街だ。会社員も少なくはないが、午前十時過ぎのこの時間は、通勤者も途切れ、街の年齢層が一層若くなる。早稲田口を出ると、南へと上りつつある太陽の光が眩しく、目を細めた。やる気に欠ける大学生には少し明るすぎる。大学までは高田馬場駅から地下鉄に乗り換えてさらに一駅あるが、常に金欠の一人暮らし学生の多くは、この駅から徒歩で大学へ向かう。貧乏学生には、一駅だけのために定期券を買うことは容易ならざることだ。

 街には、それぞれ特色があると思う。それと同時に、匂いもある。たとえばこの街はラーメンの油の匂いとエスニックなスパイスな匂いが混じった不思議なものだ。芳しいとは必ずしも言い切れないが、僕はこの匂いが街のカオスさを表しているようで好きだ。年齢こそ皆近しいが、歩く方向、話す言語、その表情も様々な人の群れの中を、南へ向かって歩いて行く。

 前を歩く、同じ大学の女子学生だろうか、肩にちょうどかかるミディアムヘアーになんとなく目が行き、ふと昨日のことを思い出した。ちょうど『糸杉』を見ていたあの子もちょうどあれくれくらいの髪の丈だった。しかし、前を歩く子は、きれいに脱色された金髪だから、赤く見えた『糸杉』の子でないことは確かだ。ただ、彼女と同じくゴールドのピアスチャームが揺れている。普通に考えて、街で偶然見かけた人と再会できる関係は極めて低い。再会を望むのなら悲観すべき事態だが、無理矢理楽観的な立場を取れば、こう考えることもできる。同年代で、ゴッホという超有名画家とはいえ、一人で絵を見に来る子は、稀有だ(絵に興味がない僕の偏見か?)。よって、そんな稀有な行動パターンにおいて一致した僕と『糸杉』の子が再会する可能性は、低くない!……少し楽観的すぎか?


 良いニュースと悪いニュースがある。まず、良いニュースだ。僕は楽天家であるのみならず、予測能力に長けた慧眼のアナリストであるようだ。美術史Ⅰが開講される小さめの教室で、僕が座っている隣の席には、『糸杉』のあの子がいた。あの展示室での印象のとおり、暗めのレッドブラウンでミディアムヘアの女の子だ。ただ、隣の席と言っても、同じ机を共有しているわけではない。長机が横に三つ、縦に十ほど並ぶこの教室で、彼女は、真ん中の机の列、僕は黒板に向かって右側の机の列だ。彼女は今、友人と談笑している。一方、僕は、この授業に関しては、美術展へ行きレポートを出しさえすれば楽に単位が貰える授業、いわゆる楽単であるが故のみに履修した。特に友人と示し合わせることもなかったため一人だ。そんな一人の僕は、悪いニュースのために、心の中で何度もため息をついている。


 悪いニュースは、彼女に悪印象を与えたことだ。失敗は二つある。まず、最初の失敗。そこまで混雑していないこの小さめの教室で、話したこともない彼女の隣にいきなり座ってしまったこと。教室に入るとすぐに、彼女に目が行った僕は、楽天的な予想のとおりに、いや、むしろ再会の速さからすれば望外のこととして、彼女にまた会えたことに舞い上がり、思わず彼女の隣の席へ向かってそのまま着席してしまった。その時点では、彼女はスマートフォンに目をやっていて、僕の様子には気づいていないようだったから、直ちにマイナスにはならなかった。しかし、二つ目の失敗と合わせ技一本だ。

 二つ目の失敗は、彼女に話しかける最初の言葉を間違えたことだ。僕は、彼女の隣に座ると、彼女が『糸杉』の前でしていたピアスを今日もしていたことに気づいた。暗い展示室の中では彼女の耳元の光が月に見えたが、そのチャームは果たして本当に月の形をしていた。あろうことか、僕はその驚きを実際に声に出してしまった。

「あ、月の。」

 まさに思わず口を突いて出たその言葉に、自分が一番驚いた。ただ、漏れ出たのは小さな声だったので、彼女が気づかないことを祈ったが、スマートフォンを見ていた彼女は、画面から視線をスライドさせるようにこちらに目をやった。

「え?私ですか?」

 うわー。この「うわー。」は口に出さず心に留めておくことができた。

「……あー、えーと、月のピアスが……。」

「え?これ?」

 糸杉ちゃんは、透き通った白と黒のコントラストが綺麗な眉根を少し寄せながら答えた。

「あ、ごめん、えーと……昨日『糸杉』見にいったら、展示を食い入るように見てた子が同じピアスしてたなって。」

「あー……。」

 彼女が耳元に手をやったところで、別のところから女性の声がした。

「あ!奈々〜。お疲れ〜。」

 彼女の友人と思しき女の子が、手を挙げながらこちらに歩いてきた。奈々と呼ばれた『糸杉』の子も、お疲れ、と応じ、それから自然と会話は二人の女の子だけのものになっていった。僕は、割って入ることも憚られただただ授業が始まるのを待つしかできなかった。二十一歳にもなって、思春期の中学生男子のような会話しかできかなかったことを恥じた。もう好感度最悪じゃないか!……でもだいたい物語の恋って好感度最悪から始まるよね?楽観的すぎ?

(つづく)


 


 


 


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