零れたエール

大枝 岳志

零れたエール

 午後十一時。飲み疲れたと言うにはまだ早い時間だ。

 駅近く。灯りを奪われた飲み屋街の公園で、昨日別れたばかりの彼女を思い出す。

 最低で最悪な別れ方だった。

 いや、別れたというよりは精算したと言った方が良いんだろうか。

 身体だけで済んでいた関係に情が生まれた。

 それを愛と捉えた俺は、ベッドに横たわる彼女にこう告げた。


「なぁ、俺とちゃんと付き合わない?」


 すると彼女は半身を起こし、苦虫でも擦り潰して食ったような顔を浮かべた。


「……はぁ? そういうのマジ面倒臭いんだけど」

「面倒っていうか、一度ちゃんと話したかったんだけどさ……」

「あー、いらないいらない。マジいらない。無理。なんか冷めたわ、うわー、冷めた。シゲルさぁ、前に私に言ったよね? そういうの求めてないって……あ、いいや。ごめん、もうどうでもいいです」

「おい、ちょっと……」


 彼女は起き上がって下着を履き始めた。その後姿が何だか生々しくて、俺には一瞬彼女がその辺のババアのようにも思えてしまった。

 下着を上げて指を放す。パチン、と肌に触れる音がして彼女が嫌な笑みを浮かべながらこう言った。


「シゲル、まさか愛とか恋とか……そんなの想ってないよね?」


 あまりにも嫌な笑みだったから、俺は煙草を探すフリをして視線を外しながら答えた。


「……想うのは、当然だと思うけど」

「悪いけど、シゲルとの時間を生活にするのは無理だわ」

「なんで?」

「なんでって私、旦那いるし」

「……はぁ?」

「冷めた。バイバイ」


 そう言って、彼女は部屋を出て行った。

 小さな腹いせに、部屋に残されていた彼女が飲み掛けたペットボトルを思い切り蹴り飛ばした。


「最悪だと思わねぇ? マジ、クソ女だったわ」

「ヤレただけ良いじゃん。互いに良い時間過ごしてたんだろ?」


 東京のライブハウスで知り合ってから五年。就職と退職を繰り返しているコウキが缶ビールを飲みながらそう言って笑った。

 路上を行き交う人等が時折、俺達をゴミでも見るような目を向けて来る。

 わざわざ街に繰り出して俺達のような人間にスマホのレンズを向ける馬鹿共。正義感やジャーナリスト気分で呑んでる連中に話し掛けてボコられてる阿呆。そして遠くから望遠で撮影する本物のマスコミ連中。

 憧れてやって来たはずのこの街は、いつの間にか日本で一番下らない街に成り下がっていた。

 

 流行病のおかげで人は団結するどころか見事に分裂した。エゴと見栄と自尊心で着飾って、色々と掻き分けなきゃ心の表面すら見えない奴が増えた。


「君達の気持ちがね、僕にも分かるんだよ。路上呑み最高!」


 いくらか前にチューハイ片手にそう叫びながら俺達に絡んで来たサラリーマンの親父。

 そいつは昨日の朝、新橋でインタビューされて


「そもそも路上で呑むという「モラル」の無い若者が「コロナに罹ったら」なんて想像する力、ある訳ないんじゃないんですかねぇ?」


 なんて白けた寝言をかましていた。

 ボケるのもいい加減にしろよ、クソジジイ。痴呆都市東京。いや、頭狂。

 どこにぶつけてやろうか迷う苛立ちを抱える俺の横で、コウキはヘラヘラと笑っている。


「シゲル、気分アゲるために面白い話し聞かせてやろうか?」


 ストロング缶の飲み過ぎで気持ち悪くなった口の中。唾を吐きながら俺は頷いた。酔っている。


「俺さ、実は今ホームレスなんだよね」


 酔う為の道具のように飲んでいた酒を、俺は盛大に噴き出した。

 おかげで一気に酔いが覚めた。


「コウちゃん、マジで?」

「おう、マジよ。マジ! はははは」

「ははは! 家どうしたの?」

「このご時世で家賃払えないからさぁ、解約した。レコードも全部売っちゃった」

「えー、勿体ないねぇ。マジかよ」


 コウキはその骨身に流れる血に音が染み込んだような大のロックファンで、新旧問わず様々なレコードをコレクションしていた。命よりも大切、と言っていたレコードを売るだなんてよっぽど切羽詰まっていたんだろう。あと、やっぱ命が大切みたいで良かったけれど。


「コウちゃん、でもなんかさ、今って色々国の制度とかあんじゃん? 使わなかったの?」

「うん。先のことちょっとは考え直さなきゃいけないと思ってさ」

「それでホームレスかよ! ウケるんだけど」

「ははは。まぁ、二、三日だけだよ」

「二、三日? アテあるの?」

「うーん、まぁ……その、実家帰るんだ。岩手」

「……は?」

「帰ってさ、植木屋やるんだ。続くか分からないけどさ」

「なんだよそれ。つまんねー……」


 どいつもこいつも、俺の前から消えて行く。


 気が付けば誰もが食い付いていたはずの危険で楽しい刺激物の前から遠去かり、何処に行けば安心や安定が手に入るのか、そんな話ばかりするようになった。

 ネオンの消えた街を平然としたツラで歩く奴ら、俺達と同じように行く場所も無くとりあえず身を置ける場所で花を咲かす奴ら、必死こいて懸命に人の為にあろうとする奴ら、明日を信じて心の底から笑える奴ら、昨日にしがみついて今日の自分を認めない奴ら、こんな状況でも希望を見つけようとする奴ら。

 そんな奴らが、全員馬鹿のように思えた。

 俺の隣に座り、地元に帰ってまで、アイデンティティを売り払ってまで、生きようとする奴。

 

 ふざけるな。どいつもこいつも、ふざけやがって。

 皆、俺の前から平気な顔をして消えて行く。

 ふざけんなよ、マジでクソだ。ふざけんなよ。

 テメェとはもう金輪際口も効かねえよ。関わりたくもねえ。一生話し掛けてくんな。

 絶交だ。こんなクソみてぇな奴、絶交だ。

 

「コウちゃん」

「ん?」


 クソったれ。穏やかな顔で返事しやがって。

 テメェとは口も効きたかねぇ気分だよ。けどムカついて仕方ねぇんだよ。

 最後に、最後の最後に、テメェが俺を一生忘れられねぇような酷い言葉を言ってやる。

 クソッタレ。絶交だ。野垂れ死ね。


「頑張れよ」


 頭に血が昇り、俺が放った言葉は思っていたものとは全然違う言葉だった。

 しかも、泣いていた。俺は泣いていた。


「シゲル。俺と遊んでくれて、ありがとう」


 それ以上、俺は何の言葉も返さないで泣いたままコウキと握手を交わした。

 こんな姿を最後に見せたら、俺はもう何も言えなくなった。


「悪い、先帰るわ」

「シゲルも頑張れよ」

「何をだよ」

「んー……生きる事?」


 そう言ってヘラヘラ笑うコウキに、俺は鼻を啜りながら手を振った。


 嬉しいんだか、悲しいんだか。

 嬉しいんだか、悲しいんだか。

 嬉しいんだか、悲しいんだか。


 歩きながら、そんな事を延々考えていた。

 人が途切れた夜の歩道で、俺は声を出した。


「あ、寂しいんだな」


 そうして俺は、一人で笑った。

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零れたエール 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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