毎日ケンカばかりだったあいつに伝えたい、たった二つの大切なこと。
みつぎ
毎日ケンカばかりだったあいつに伝えたい、たった二つの大切なこと。
犬猿の仲とはきっと、俺たちのことを言うのだろう。
「そうね。あんたの性欲はまさに、『猿』そのものだもんね」
「いやいやお前の知能こそ、『犬』レベルだけどな」
「はぁ? 犬は賢い動物なんですけど?」
「いや、猿のほうが賢いから」
「犬は可愛いし! 私みたいにねー!」
「猿も可愛いわ! 俺みたいに!」
そして始まるいつもの喧嘩。『いつも』とはつまり、毎日顔を合わせる度に、こんな言い合いをしているという意味だ。
この憎き女の名は、
もう慣れたとはいえ、しかし冷静に考えると異常な関係である。
こんなにぶつかり合う相手は、今までいなかった。この女と出会うまで、自分はもっと穏やかな人間だと思っていた。
「ていうか、なんなの『犬猿の仲』って。『仲』って。私とあんたの間に、繋がりを感じさせる一字が入っているのが、気に食わない」
「仕方ねえだろ。言葉を作った昔の人に言え」
「ねえ、なんでこの教室にいるの? 早く出てってよ」
「このクラスの生徒なもんでね! お前が出てけ」
「もうほんとうざいっ。あーあ、なんでこんなやつとクラスメイトなんだろ……」
「クラス『メイト』だあ!? 仲良しみたいに言ってんじゃねえ!」
「いちいちうるさいなあ!」
「お前がな!」
エンドレスファイトである。
ちなみにこいつとは同じクラスになってからもうすぐ半年近くになるのだが、未だにこんなテンションで俺たちは喧嘩を繰り広げている。
もちろん、四月、同じクラスになってすぐの頃は、俺たちの関係はこんな風にこじれてはいなかった。
有坂亜梨沙。彼女のことを少なくとも俺は当初、単なるクラスメイトの一人としてしか認識しておらず、何の感情も抱いてはいなかった。
明確に俺たちが険悪な関係になったのは、クラス替えから一週間ほど経った頃に起きた、あの事件がきっかけだろう。
「おわぁっ!」
「きゃぁっ!?」
廊下を歩く有坂のことを、真正面から俺が押し倒したーーというと語弊があるが、結果的にはそうなってしまったことを、正直にここでは述べておこう。
俺は担任から運ぶよう頼まれた山積みのノートを抱えながら、廊下を歩いていた。そこでちょっとした不注意で、段差に足を躓かせてしまったのだ。
そのタイミングで、ちょうど前からこちらに歩いてきていた有坂を、巻き込む形で押し倒してしまったのである。
ノートが宙に舞い、周りを囲むように床に散らばる。
「いってて……」
俺は一瞬何が起きたか理解できず、ゆっくり顔をあげた。目の前には、有坂の真っ赤な顔。
そして俺は、気づく。色々と誤解をされてもおかしくない体勢で、有坂と密着してしまっていることに。
「ご、ごめんっ!」
瞬間的に、彼女の体から離れる。上ずった声で、謝る俺。もうその時は、とんでもない犯罪を意図せず犯してしまったような気持ちだった。
だけどそんな必死な俺の謝罪は響かなかったようで、彼女はみるみる表情を怒りに染め、
「きもい! 変態!」
そう叫んだ。シンプルながら心をえぐる、強い罵倒の言葉だった。
それが事の発端。だけどこの時点ではまだ、有坂に対して罪悪感はあれど、憎しみなんて感情は微塵もなかった。当然だ。
だからしばらくは、有坂と教室で顔を合わせる度、俺が一方的に謝罪する毎日が続いた。
だけど。
「話しかけないで」
と言われ、
「うざい、きもい」
と罵られ、
「近づかないでよ、変態」
と何度も何度もこき下ろされ続ければ、こちらも流石に気持ちがぶれてくる。
いや流石に、酷くないか?
何もここまで……いや、理解はできる。事故とはいえ、男子である俺が女子である有坂を押し倒してしまったのは事実。彼女は俺の想像以上に大きな傷を、負ってしまったのかもしれないのだから。
……でもさ。
「変態! 近づくなって言ってんでしょ!」
ちょっとすれ違ったくらいでこう言われ、
「ねえ。なんであんたってそんな、キモイの? マジ不思議なんだけど」
むしろそっちから寄ってきては、こう言われ、
「あー腹立つ。あんたの顔見てると、ほんとイライラするー」
なんて不機嫌丸出しで面と向かって言われ続けたら、もう俺も限界だった。
謝ったら罵倒されるし、距離を置けば詰めてきて罵倒される。
そんな彼女の理不尽な態度に、俺の我慢も限界を迎えたのだ。なので。
「いい加減にしてくれよ」
こうなってしまった。
「謝ってるだろ? なんでいつまでもそんな、文句言われなきゃいけねんだよ」
俺にもついに怒りの感情が湧き上がり、そんな言葉を投げてしまった。
対する有坂は相変わらず冷たい態度で、
「はぁ? 女子にあんなことしておいて、謝ったくらいで許されると思ってんの?」
そんな彼女に、俺も怒りが加速する。
「わざとじゃねーし。別に触ったりしたわけでもないだろうが。事故なんだから、仕方ねーだろ」
「事故だろうとなんだろうと、押し倒したのは事実でしょ? 本当に恥ずかしかったんだから……色んな人にも見られてさ!」
「そ、それは俺だって同じだ!」
幸い変な噂が広がって、俺が学校中から変態扱いされる……なんて事態にはならなかった。クラスのみんなも別に、そのことで俺を迫害したりはしない。この女以外は。
「大体いつまでもネチネチ、うぜーんだよ! どうしたら気が済むんだお前は!」
「はああ? まさかの逆ギレ? マジキモいって!」
「もうここまできたら逆でもねえよ! 毎日のように突っかかってきやがって!」
お互い声のボリュームは上がり続け、教室中の注目を集めるほどの大喧嘩となった。
「ばーか!」
「バカはお前だバーカ!」
ついにはそんな幼児みたいな言い合いに発展したこの喧嘩は、一応周りからの制止でなんとか収まった。ただ収まったのはその場だけで、紛れもなくここから、俺と有坂の戦いは始まったのだ。
「ばーか」
「うるせーばか」
「ねえ、お金払ってよ。慰謝料として」
「はあ? 発生するかそんなもん」
「まあ、貧乏なあんたじゃどうせ払えないか。私の負った傷を換算したら、とんでもない額になるもんね」
「そうだな。二百円なんて大金、とても払えそうにないよ」
「ふざけんな! 二百万よこせ!」
「ヤクザかおめーは!」
口喧嘩が止まらない。まるで友だちと談笑するかのようなテンポで、俺たちは罵り合う。
もしもあんなことが起きていなかったら、逆に仲良くなれていたのかもーーとさえ、思えない。この女とはどんな出会い方をしても、険悪な関係になっていた気がする。
まさかこんなに相性が悪い人間が、この世に存在するなんて……だけど。
そんな関係ももうすぐ、終わりを迎えることになる。
なぜなら俺たちは、高校三年生だから。
*****
「なあ、
ある日の休み時間。友人の
「……俺が誰に告白するんだよ」
「決まってるだろ。有坂さんに」
「あいつに告白することなんてねえよ」
「いやいや、あるだろ。自分の気持ちに素直になって、ちゃんと伝えなきゃ」
「……確かに。気持ちを言葉にして伝えることは、大切だもんな」
「だろう?」
「『嫌い』って。はっきり伝えるべきだよな」
「バカ野郎! 素直になれって言ってるだろうが!」
手のひらで机を叩く佐々木。何を熱くなってるんだこの男は。
「本当は有坂さんのこと、好きなんだろ!?」
「嫌いだって……このやり取り、何回目だよ」
しかもそんな、大声で。幸い、有坂本人は現在教室にいない……別に聞かれて困るわけでもないが。
「嘘つけ! あんだけ毎日仲良く喧嘩してるくせに、好きじゃないわけないだろ!」
「どんな言葉遊びだよ。仲悪いから喧嘩するんだろうが」
「いやいや、喧嘩するほど仲が良い、だろ!? 嫌よ嫌よも好きのうちで、好きな子はいじめたくなっちゃう、だろ!」
「俺の嫌いな空説を並び立てるな。俺と有坂には全部、当てはまらねえよ」
呆れてため息が出る。正直この佐々木に限らず、似たようなことは周りからよく言われる。『本当は好きなんだろ』とか、『もう付き合っちゃえよ』、とか。
そんな奴らに声を大にして言いたい。本当は好きなわけあるか。付き合っちゃうわけないだろうが。俺たちの仲の悪さを、舐めるなと。
「おいおい、まだ認めねえのかよ? だいたい有坂さん、めちゃくちゃ可愛いじゃん。それだけでも、好きにならない理由がないだろ?」
「誰の話をしてるんだ?」
「だから有坂さん!」
まあ冗談はさておき、確かに容姿は、それなりに可愛いと……いや、やっぱり思えない。顔は整っているかもしれないが、性格が歪んでいるために、どうしても可愛いとは思えない。あるいは俺があいつのことを嫌いだから、そう思えないのかもしれない。
もしもあいつが有坂亜梨沙でなければ、俺も彼女を可愛いと思っていたのだろうか。
「とにかく、俺があいつに告白することなんてない」
「うーん。じゃあせめて、仲直りしたら?」
「直る仲もないな」
「森田よぉ。そんなこと言ってていいのかよ?」
「なんだよ」
「俺たちもう、卒業だぜ?」
俺は頬杖をつきつつ、そんな佐々木の言葉を飲み込み、息を吐く。そんなことは分かってる。そしてきっと、このままじゃいけないことも。
すると、ちょうど有坂が教室に戻ってきた。こちらに向かって歩いてくる。
佐々木が「じゃあ後はごゆっくり~」と的外れな気遣いの言葉を残し、その場を去る。
有坂は俺の前に立つなり、
「今、私の顔見たでしょ」
「だからなんだよ」
「きもいから見ないでって、何度言ったら分かるの?」
ほら、目があっただけでこれだ。こんな女のどこを、好きになればいいというのだ。
「じゃあ俺の視界に入ってくるなよ。俺にお前を見せるな」
「だからいつも言ってるじゃん。この教室から出てけって」
「お前も同じことの繰り返しだな。バカの一つ覚えってやつか?」
「バカはあんたでしょ。ばーか」
「お前だよ。大体お前、俺に成績で勝ったこと一度でもあんのかよ?」
「はぁ? 成績でマウントとるとか浅いんですけど。そういうとこがバカなんじゃん」
「お前がなんと言おうと、数字が証明してるって言ってんだよ。どっちがバカなのか」
「うざっ。カップ麺が日本一のラーメンだと思ってるタイプ?」
「そんな話はしていない!」
全く噛み合わない……いや、実は噛み合っているのかもしれない。気持ちはきっと、一緒だった。お互いがお互い、『嫌い』なこと。
結局最後まで俺たちは、このままなのかもしれない。
「はぁ……まあ安心しろよ。来月にはこの教室から、出てってやるから」
「なんで来月なのよ。いますぐ出てってよ」
「うるせーな。もうすぐ卒業なんだから我慢しろって言ってんだよ。そしたらもう、顔を合わせることもなくなるだろ」
全く本当に、どうして俺たちは同じクラスだったのか。同じ教室に一年間もこんな相性最悪の二人を閉じ込めた、学校サイドの罪は重い。いや、クラス替え当時はこんな関係になるなんて、思ってもみなかったのだけれど。
「……ふん」
と、珍しく強く言い返してこない有坂。普通に俺との口論に飽きたのだろう。そのまま彼女は、自分の席に戻っていった。
それから卒業までの間も、いつも通りの日常が続いた。顔を合わせる度に、いがみ合って。嫌い合って。俺たちは喧嘩していた。
しかしそんな日々も、ようやく終わりを迎える。
卒業式の日が、やってきた。
*****
式はあっけなく終わった。あっけなさすぎて、あえて描写すべき点もない。もっと充実した高校生活を送れていたら、感慨深くもあったのだろうが。
「おい、森田」
クラスによる中庭での記念撮影を終えた後。帰り支度をしようとしていたところに、佐々木が話しかけてきた。
「これからモテない男子集めてカラオケパーティしようと思うんだが、来るか?」
「嫌な誘い方するな」
これから集めるってことは、俺がモテない男子一号かよ。そしてそんなパーティを主催するこいつは一体、どれだけモテないんだ。
「ははは。で、来る?」
「……」
俺は少し考えるふりをして、
「いや、ちょっと用事がある」
と言った。
「だよな。ま、頑張れ。あとで結果教えてなー!」
そう残し、佐々木は去っていった。絶対またお花畑な勘違いしてるな、あいつ。
まあ、なんだかんだであいつの言うカラオケパーティとやらも、行けば楽しいのだろう。もしかしたら高校生活最後に、良い思い出を作れたかもしれない。
でもその権利は残念ながら、俺にはない。何もけじめをつけないまま、楽しい思い出なんて作れるか。
むしろこれから俺がやろうとしていることは、最悪な思い出になるかもしれない。それでも俺は、
中庭はわいわいがやがやと、卒業生たちで賑わっている。友達同士で記念撮影したり、先生と泣きながら話していたり、そんな賑わいの中で。
みんなの輪から外れて、一人ぽつんと佇む有坂を見つける。
俺の視線に気づいたのか、有坂も、こちらを見る。が、有坂はすぐに目を逸らした。いつも目が合えばすぐにこちらに詰め寄ってくるのに、それは珍しい反応だった。
「おい、有坂」
俺は彼女に近づき、声をかけた。
「……なに」
「話がある。ついてきてくれ」
「はぁ? きもいんですけど」
いつも通りの反応を見せる、有坂。
「いいから来い」
俺もいつも通り、ぶっきらぼうにそう言って、歩き出す。後ろは振り返らない。ついてこなければ来ないで、いいと思っていた。
……といいつつ、結局途中で不安になって振り返る俺。有坂は少し距離を空けてはいたが、ちゃんと俺の後ろをついてきていた。
ついてこいとはいったものの、こんな素直な有坂は、初めてなように感じた。
そして人気のない校舎裏へと、俺たちはたどり着く。
有坂と、向かい合う。彼女はいつもの不機嫌ヅラで、俺の目を見ようともしない。またいつもの通り喧嘩が始まってしまうかもしれない、と一瞬頭をよぎったが、どうせ最後だし、それでもいいかとも思った。だけど意外なことに、彼女は俺が喋り出すまで、口を開かなかった。
「俺はお前のことが嫌いだ」
と。
いつか佐々木が言ったとおりに。自分の気持ちを正直にーー俺は、告白してやった。
「……」
有坂はまだ黙ったままだ。構わず、俺は続ける。
「理由はただ一つ。それは、『お前が俺を嫌いだった』からだ」
自分の気持ちを正直に、伝える。
約一年間、険悪であり続けた俺たち。ある意味強固な繋がりだったといえる俺たちの関係に対する、それは一つのけじめだった。
「お前が俺を嫌う理由は、たぶん四月、俺がお前を廊下で押し倒してしまったことーーあれが、原因だろ」
相性が悪いとか、相容れないとか。そんな言い訳でごまかすのは、もうやめだ。こいつの俺に対する異様なまでの敵意の理由は、最初からはっきりしていた。
それを作ってしまった原因が、紛れもなく俺にあることも。
「いや、もしかしたら他にも原因は、あるのかもしれない。だって、一年近くも俺を嫌い続けたお前だ。その憎しみはきっと、半端じゃなかったんだろう」
いつ彼女がその憎しみを爆発させ、俺に罵倒の言葉を投げつけてきてもいいように、心の準備はできていた。俺はもうこの場において、何も言い返さないし、言い訳しない。
だけど有坂は、何も喋らない。
「……だから、なにか他に理由があるなら言ってくれてもいいし、言わなくてもいい。お前に任せる」
話を聞いてるのか聞いていないのか分からない有坂を前に、俺はここで一呼吸置く。
そして。
「だけど最後に二つだけ、言わせてくれ」
伝える。これまでの俺たちと、これからの俺たちにとって、
「一つ。俺のことは忘れてくれ。お前も俺を、忘れることにする」
「言うまでもないわよ」と返ってくるかと思ったが、やはり有坂は何も言わない。
だったら続けさせてもらおう。最後の一つを。
「そしてもう一つ」
俺は深呼吸して、唾を飲み込んで。
思い返す。これまでの日々。彼女の憎しみに満ちた顔、罵倒の言葉の数々。そしてそれに対する、自分の苛立ち。
それらすべてを、飲み込んでーー俺は思いっきり、頭を下げた。
彼女の前で頭を下げるのは、実に十一ヶ月ぶりだった。
「あの時押し倒したこと。そんで、この一年間のこと。本当に、ごめんな」
そして、十一ヶ月ぶりの謝罪の言葉。だけどそれは別に、有坂と仲直りしようとか、許してもらおうとか、そんなつもりで言った言葉ではなかった。
これはただ、俺と有坂の、この一年間の関係を、清算するための一言。
『さようなら』と、同義だった。
「……」
それからしばらく頭を下げていたが、何の返事もない。ので、少し不安になってきた。
もしかしたら有坂はもう、帰ったのかもしれない。
だとしたら最後の最後に見事な嫌がらせをしてくれるな、と感嘆しつつ、俺は顔を上げてーー驚愕した。
「……」
やはりそこに、有坂はいなかった。
そう。目から大粒の涙を流して、悲しそうに俺を見るこの女子が、あの有坂であるはずがなかった。いつもの勝ち気で生意気で不機嫌そうな有坂は、どこにもいなかった。
「なんで……?」
彼女は口を開いた。その声は間違いなく、一年間嫌になるほど聞いた、有坂の声だった。
「なんでそんなに、優しいの……?」
「は……?」
意外な言葉だった。一瞬誰の話をしているのかと、疑った。だけど確実に彼女は俺の目を見つめて、俺に向けて言葉を投げかけていた。
「なんで……うっ、ぅ、なんでぇ……」
「お、おい」
「私、でしょ? 謝らなきゃいけないのは……だって、私、たくさん、今までひどいこと言って……うぅっ」
泣きじゃくりながら必死に言葉を紡ぐ有坂の姿に、戸惑ってしまう。
「私、だよぉ……。私のほうが、ひどいことして……いつもいつも
初めて名前を呼ばれたことに、不覚にもドキッとしてしまったーーじゃなくて。
何だ一体? これは、どういう状況だ? らしくない。こんな有坂の姿は、初めて見る。いつもの強気な態度は、どこにいったのだ?
「おい、有坂……」
「ごめんなさい!」
有坂は、涙声で大きく叫び、そして頭を下げた。それも有坂の口から初めて聞く、言葉。
謝罪の言葉だった。
「……えっと」
「ごめんなさい、本当にいままで、ごめんなさい……うぅっ」
「お、おう……いや、俺の方こそ」
「違う、ちがうのぉ……私のほうなの、森田くんはわるくないの、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
「えーっと……」
なんだろう、冷や汗が止まらない。こんなのは俺が望んでいた状況ではない。俺は別に彼女に、謝ってほしかったわけではない。
そもそもどうして、有坂は今日になって急に素直に、謝ってくれるんだ?
「あの……有坂。落ち着け、な?」
「うっ、うぅ……」
涙を手で拭い、鼻水をすすりながら、有坂は小さく頷いた。もう顔中ビシャビシャだ。本当にらしくない。
「とりあえず、酷いこと言ったのはお互い様だし……元はと言えば俺が原因だしな。そんな、思い詰めるなよ」
いや自分で言ってて、違和感がすごい。まさか俺が有坂を慰める日が、来るなんて。
「うっ、ん……でもぉ」
「だからその……お互い、ごめんなさいってことで。これでチャラにするってのはどう、かな?」
仲直り、という言葉は使わなかった。俺と有坂の間には元々、直す仲なんてものはない。
だから、チャラにする。今までのことを全部、なかったことにする。それで本当にもう、終わりだ。
だけど、有坂は。
「まって……チャラには、しないで」
「えっ?」
そんな俺の提案を、拒んだ。
「ごめんね……。だってまだね、謝りたいことがあるから……私が謝りたいことは、もっと他にもあって……い、いちばん謝りたいことが、まだあって」
「……一番、謝りたかったこと?」
「すっ……すき、だったの」
「な、なんて?」
「すき、だったのぉ……」
「好き……? なにが?」
「も、森田くんのことが……その、わたし……」
へぇっ? という、間抜けな音が俺の喉を通り過ぎて口から出た。
有坂の顔は、真赤だった。
「す、好きで……なのに」
しどろもどろな口調になりながら、もう一度有坂は頭を下げて、言った。
「好きなのに、めちゃくちゃ嫌いみたいな態度で接しちゃったこと、本当にごめんなさいっ」
ーーと。
恐らく今後の人生で二度と聞くことはないであろう理由で、またしても俺は謝られたのだった。
*****
「一年生の頃から、ずっと好きだったの」
誰もいない校舎裏のベンチに、並んで二人で座る。
「……マジ?」
「う、うん」
「えっ……なんで?」
「だって森田くん、見た目は不良っぽいなのに、先生のお手伝いとかよくしてて……その、ギャップで」
「お、おう……」
思ったより具体的な理由が出てきて、照れる。同時に有坂が俺のことを好きだという嘘みたいな話が、事実だという実感が湧いて、より照れる。
いや確かに、先生の手伝いはよくしてるけど。単に、いいように使われてるだけなんだが……そういえば有坂を押し倒した当時も、ノート運んでたりしてたっけ。
「でも私は、森田くんみたいに良い人じゃないし……。本当の不良だったし、人付き合いも苦手で。こんな私じゃ絶対森田くんに好きになってもらえないって、諦めてたんだ」
「……そうなのか」
それも、意外だった。俺と喧嘩する有坂はいつも自信たっぷりの、女王様みたいに見えていた。
だけど思い返せば、俺と喋っていない、普段教室で過ごしている有坂はいつも。
いつも一人ぼっちだった。
「私、昔から口が悪くて……だから友だちもできなかったんだけど」
「まあ、口の悪さは……」
正直身をもって体験している以上、フォローできねえ。
「ほ、ほらあの時も……咄嗟に言葉が出ちゃって」
「あの時……ああ、廊下でぶつかったときか。きもい、変態とか言われたっけ」
「ごめん! 言ったあとで、目の前にいるのが森田くんだって気づいたんだけど……もうすっごく恥ずかしくて、逃げちゃって」
なるほど。要するに、どうやらあの時有坂も俺と同じように、パニックだったのだ。当たり前か。
「それでその後、めちゃくちゃ後悔したんだよね……私、森田くんになんてこと言っちゃったんだろうって」
「いやまあ、言われて仕方ないことではあるが……」
「あんな酷いこと言っちゃったら、森田くんと仲良くなるのはもう絶望的だなって、思ったの。たぶん一生、森田くんと話すこともできないんだろうなって。そう考えたらね、自然と、思ったの」
有坂は顔を伏せ、声を少し落として、言った。
「もういっそ、徹底的に嫌われよう、って。そうすれば、こんな絶望的な状況でも、森田くんと繋がれるってーー」
そこまで言って有坂は顔を上げ、俺を見た。その潤んだ瞳の中には、なにか強い意志が、宿っているようにも見える。
「そう、思ったの」
つまり……そうか、そういうことだったのか。彼女は
持ち前の口の悪さで、いっそ嫌われ続ければいい、と。
「そうすれば、森田くんとずっと、お話できる……教室でも、廊下でも、学校であったら、いつでも話せるって」
「……んだよそれ」
ため息が出る。そんなの、不器用なんてレベルじゃない。好きな人に嫌われることが、どれほど辛いことだというのか。
「本当に、ごめんなさい……今までひどいこと言って、森田くんを傷つけて、私の面倒な性格に、付き合わせて……ごめんなさい。さっき森田くんが言った通り、私のことなんかもうすぐに、忘れてくれていいから」
たった二つの伝えたいこと。
一つ。俺のことは忘れてくれ。お前も俺を、忘れることにする。
「でも私は、たぶん無理。森田くんのことを忘れることなんて、きっとできない。勝手でごめんなさい……。だって本当に私はこの一年間、森田くんとお話できて、すごく幸せだったから。だからね、森田くんーー」
涙を拭い、鼻をすすり、それでも彼女は最後に俺を見ながら、悲しげに微笑んだ。
「こんな私と一年もケンカしてくれて、本当に、ありがとう」
「……」
正直、言いたいことは山ほどある。なにを今更、と。そんなことなら、最初からーーああ、もう。
決して納得はできない。だけど。
それでも理解は、できる。
「よかったよ」
「えっ?」
「お前の本音が聞けて。その……卒業して、離れ離れになる前に」
「……森田くん?」
そんなことなら、最初から普通に話しかけてくれればよかったのにーーなんて、とても言えない。
だってきっとそれが、不器用な彼女なりに必死に悩んで、俺と繋がろうと選んだ道なのだから。
いつも強気な風に見えて、口が悪くて、だけど実はとても繊細で、弱くて、不器用で。
つまり、それが『有坂亜梨沙』という女の子なのだということ。それを今ここで、理解できて本当に良かった。
「さっきの一つ目は、取り消しだ。俺はお前を忘れないし、お前も俺を、忘れないでほしい」
「えっ……? で、でも」
「そもそも、お前が俺のことを嫌ってるわけじゃないなら、前提から崩れるんだよ。俺のことが嫌いで、俺のせいで苦しんでるなら、もう俺のことなんか忘れてくれって、そういう意味でさっきは言ったんだ」
だけど、今更その前提が崩れたというのなら、全てがひっくり返るんだよ、有坂。
もうお互い忘れる必要も、更には俺が有坂を嫌う理由も、今この瞬間に消失したのだから。
「有坂。お前がもし俺のことを好きだって言うのなら。俺もお前のことを、好きになれると思う。だからーー」
体が熱くなるのを感じながら、俺は有坂の目を見て言う。
「俺と友達に、なってくれ」
有坂はその言葉を聞いて口を大きく開けて、驚いた様子だった。そしてまた、大粒の涙を流し始めた。薄く、頬を紅潮させながら。
「いいの……? 私なんかが、森田くんの、友だちになっても……」
「……ん」
ちくしょう、熱い。別に愛の告白をしたわけでもあるまい、どうしてこんなに照れるんだろう。
「ありがとう、うれしい。ありがとぉ……えへへっ」
そうやって涙を流しながら嬉しそうに笑う有坂の顔を見て、俺は咄嗟に顔をそらしてしまった。
冷静を装い、あくまでいつも通りに、ぶっきらぼうに言う。
「……よろしくな」
「うんっ」
だいたい有坂さん、めちゃくちゃ可愛いじゃん。それだけでも、好きにならない理由がないだろ?
佐々木のニヤついた顔とともに、いつだかの言葉が脳裏に浮かぶ。
全くもって、悔しい。その時俺は不覚にも、有坂のことを、可愛いと、思ってしまった。
*****
あれから。
お互い別々の大学に進学しつつも、俺と有坂はときおり連絡を取り合い、またときには直接会って、近況を報告し合ったり、他愛もないお喋りをした。
高校時代ほどではないにしても、彼女は相変わらず口が悪く、やっぱり俺たちは喧嘩をした。まったく、卒業式の日のあのしおらしさは、一体どこへいったのだろう。
だけどお互い、そうなった時にすぐに謝れようになったのは、間違いなくあの頃より進歩しているといえた。
「『犬猿の仲』って言葉、私、好きだな。お互い嫌いあってるはずなのに、繋がりを感じさせる一字が入っているのが、すごく好き」
だから前に、森田くんが私達の関係をそう言ってくれたこと、実はすごい嬉しかったよ。
なんて、また今更なことを、有坂は言う。
だけど喧嘩の後に必ず見せてくれる、そんな彼女の笑顔に、俺は少しずつ惹かれていった。
ある夜、イルミネーションが綺麗な公園に、俺は有坂を呼び出した。
緊張しながらベンチに座って待っていると、遠くから、大きく手を振る彼女の姿が見えた。
俺も小さく、手を振り返す。
今、あの卒業式の時のように、彼女に伝えたい
数分後の未来。俺はちゃんと、それを彼女に伝えられているだろうか。
「好きです」
それと。
「俺と付き合ってください」
毎日ケンカばかりだったあいつに伝えたい、たった二つの大切なこと。 みつぎ @mitugi693
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