第18話 一太と慶喜④

「帝がいて、そこに将軍ならぬ首相というものを置く。それは良しとしよう。ただ、そなたの意見によると当面は徳川家や大名を筆頭とした者達が導くというのだな?」


「左様でございます」


「それを切り替えるのはいつになるのだ? 誰が判断するのだ? 帝か? それともそなたか?」


 中々、意地の悪い聞き方だ。


「憲法が公布された時でございます」


「憲法か……」


 念のため、憲法がどういうものかを改めて説明し、理解を求める。


「だが、憲法が制定されて、それで切り替えるというのは現実的に無理があるだろう? 士農工商まとめて市民としたとするが、全員がそなたのような頭を持っているわけではない。説明しても理解できない者の方が圧倒的に多いだろう?」


 これは慶喜の言う通りではあるだろう。


 大日本帝国憲法はその内容より、理解度や運用の方に問題があったと思われる。


 そもそも、憲法を作れる能力が日本には足りなかった。だから、伊藤博文自身が海外に出向いて学者たちの意見をすり合わせて出来たものである。


 制定者自身が現在進行形という憲法を公布したとしても、それが何であるか理解できるはずもない。


 それを教育・普及させる存在が必要となるが、残念なことに当時の日本にはそうした機関もなかった。当時の日本には官僚機構がなかったため、まずそうしたものを育てるということに主眼を置いたからだ。帝国大学は官僚養成学校となり、民間教育への意識は皆無だった。明治初期に民間に向けた教育を行っていたのは福澤諭吉くらいだろうか。


 多くの市民にとっては、いつのまにか幕府がなくなり憲法が制定されたが、それがどんなものであるかはっきり教えてくれる場がなかったのである。



「理解できる者が増える場を早いうちに設けることでございます」


 ただし、今は幕末の戊辰戦争などがないので有為の人材を失う比率は少なくて済むだろう。その分、史実よりも余裕はあるはずだ。


 また、憲法学は分からないが憲法というものに馴染んでいる私や燐がいるので、伊藤博文が海外を飛び回らずとも、憲法の土台となるものを作ることができるだろう。


「ま、そうなるだろうな。しかし、そうなると、結局のところいつまで経っても変わらないということにならないか? 移行期間を設けて、その間にズルズルと足を引っ張ったり、なかったことにしたりすることはよくあることだが?」


「それは大丈夫でございます」


「何故だ?」


「日ノ本の中だけでなく、諸外国にも約束をするのですから、守らなければ不平等条約の改訂をなすことができない等の問題が生じてきます」


 慶喜の言うように国内だけでは中々動かないだろう。


 だから外圧に頼るしかない。


「……それなら憲法は理解されるということか?」


「まあ、史実よりは」


「史実?」


 おっと、うっかり口を滑らせてしまった。


「制定までに5年、そこから公布までに5年ほどかけてしっかり教育すれば、うまくいくだろうと思います」


「10年か。長いと見るか、短いと見るか微妙だな」



 慶喜はまたしばらく考える。かなりの熟考だ。


 およそ15分、腕組みをして考えた後、結論を出したようで口を開いた。


「……そうするしかないのだろうな」


「これがもっとも、進みやすい方向だと思います」


「しかし、電信のことはともかく、大政奉還は誰が将軍に申し出るのだ? そなたか?」


「まぁ、内内にはそうなりますが、公式には老中か旗本かに」


 思い浮かんだのは河井継之助と牧野忠恭だ。


「老中は自己の保身もあるからやらぬだろう。旗本もこれほどの大事を申し出ることは難しい。全部理解しているわけでもないだろうし」


 言われてみると、その通りではある。


「余から申し出ても良いぞ?」


「えっ?」


 慶喜から将軍に申し出るという、意外な展開に驚いたが、慶喜はフンと鼻を鳴らす。


「そなたは中々食えぬ奴よな。天狗党の連中が余計なことをして、余が戦力を失ったから話に来たのだろう?」


「……ははっ」


「いくら何でも水戸で挙兵したとなると、余も連中をかばうわけにはいかん。つまり、余は手札をかなり失ったことになる」


「……」


 確かにその通りだ。


 天狗党が尊王攘夷を唱える組織に留まっていれば、その管理をすることで慶喜の戦力となる。


 しかし、決起してしまったとなると話は変わる。これはほぼテロリストと似たようなものである。これを擁護すると慶喜の資質を疑われる。見捨てるしかないのであるが、そうなると慶喜は単純に手札を一つ失うことになる。


 その挽回策として、大政奉還を自分の口から切り出そう、ということか。


 慶喜の言う通り、そうした方が良いと思っていても、旗本や老中には中々難しい。慶喜クラスの人物が進言して、賛成者が受け入れれば話は速く進む。


 そうすれば、慶喜は天狗党とは違う立場であると公にできるし、幕府内での影響力を留めることもできる。


「そうしていただければ、大いに助かります」


「フン」


 慶喜はまた短く鼻を鳴らした。


「聞きたいことは他にもあるが、話も長くなったし、今日はこれで良かろう。明日、江戸城には来るのだろうな?」


 この聞き方をするということは、明日、慶喜が実行するということなのだろう。


「分かりました。よろしくお願いします」


 そう言って、慶喜に頭を下げた。

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