第2話 スエズ運河周辺

 かくして7月18日、サウサンプトンから地中海に向けて出発した。


「エジプトか、楽しみだな……」


「……何でおまえまでついてきているんだ、エドワード」


 俺とアブデュルハミト、ニコライの3人で行く予定だったのだが、いざ出港するとプリンス・オブ・ウェールズのエドワードまで乗船していた。


 新婚ほやほやのおまえが何でいるんだよ、そう問いただすが。


「フッ、アレクサンドラはもう妊娠している。つまり、俺は、俺の愛を受け止めるべき別の女を探さなければならないのだ!」


 海に向かって拳を突きあげるエドワード。


 一度、海に突き飛ばした方が良いのではないか、と思わないでもない。



 余計な乗客はもう1人いる。


「ワハハハハ! 地中海が吾輩を呼んでいる!」


「おい、エドワード……」


 何でカール・マルクスまで乗っているんだ。


「知らないよ。あいつがたまにはリンスケの行くところに行きたいってずっとダダをこねるものだから、外務大臣が許可を出してしまったわけだから」


 マルクスはどうしようもない奴だが、根気とやる気だけはある。


 外務大臣邸でひたすら陳情しまくって頭を抱えているジョン・ラッセルの様子が目に浮かぶ。



 しかし、イギリス、ロシア、トルコの皇太子に加えてマルクスまで同じ船に乗っているなんてかなり凄いことではないだろうか。万一ではあるが、この船が沈んだら歴史は相当変わりそうだ。


「そうだ。つくまでに僕がエジプトのことを説明しておこう」


 唐突にアブデュルハミトがエジプトのことを説明すると言い出した。


 それはありがたいのだが。


「どっちかというとマルクスに説明させた方が……」


「ワハハハハ! さすがリンスケ! 吾輩の知識に感服しているのだな!」


「そんなわけはねえよ」


 ただ、アブデュルハミトに説明させるとオスマンバイアスがかかりまくっていそうだ。


 マルクスは困った奴だが、こいつの知識が頼りになるのは間違いない。



 ということで、マルクスが意気揚々話を始める。


 エジプトは16世紀以降、オスマン帝国の支配下に置かれていた。


 とはいえ、他国の通行が認められていなかったわけではない。特にイギリスはインド植民地への通行路としてエジプトを通っていた。


 18世紀末、フランス革命の余波に乗ったナポレオン・ボナパルトは、このイギリスとインドの連絡路を断つという目標の下、エジプト遠征に乗り出した。一応支配には成功したが、短期間で撤退することになる。


 フランスの撤退後、台頭してきたのがムハンマド・アリーだ。オスマンの将軍としてやってきた彼だが、現地軍人達を謀殺してエジプトの支配権を確立した。


「かくしてオスマンから半独立の王朝・ムハンマド・アリー朝を築き上げたのだ!」


 アブデュルハミトが不愉快そうな顔をしているな。


 まあ、自分の国からでっかい領土が奪われた話が面白いわけないか。



 ムハンマド・アリーはイギリスやフランスに接近して、近代化技術を多く国に取り入れた。


 その時期にスエズ地区に運河を作ろうという運動も起きたらしい。


 ただ、アリーは賛成しなかった。


 理由は大きく二つ。一つ目は運河が出来ると、船が全て地中海から紅海までスルーしてしまいエジプトに滞在しなくなる。つまり、エジプトの国内産業が潰れると見たわけだ。


 もう一つは地中海交通がスムーズになることで、イギリス・フランスとオスマンの差が更についてしまうことを危惧した。勝手に独立したムハンマド・アリーにとって、オスマンは敵ではある。しかし、オスマンが弱くなりすぎると、今度はエジプトが英仏から必要とされなくなってしまう。


 それどころか最悪、植民地にされかねない。


 大きくこの二つの理由でムハンマド・アリーは死ぬまで運河の建設を認めなかった。



「しかし、1848年にムハンマド・アリーが死に、その凡庸な後継者は近代化した西洋にかぶれてしまった。その結果、西洋人の言うがままに運河の建設を認めるに至ったのだ!」


 ということで、フランス人のフェルディナン・ド・レセップスがムハンマド・アリー朝4代君主のサイード・シャーを説き伏せて運河建設のゴーサインを得たわけだ。レセップスは以前から家庭教師のようなことをしており信任されていたらしい。


 ただし、レセップスの手法はお世辞にも歓迎されるものとは言えなかった。


 全長100キロもの運河を作るとなると、とてつもない資金と労働力が必要となる。


 労働力については手っ取り早い方法で賄うことにした。強制労働だ。


 資金については一般の投資家も募ったが、それ以外についてはサイードに出資させることになった。


「哀れサイードは、素寒貧になるまで投資させられたうえに、国際社会から強制労働の非難の嵐まで受けたのである! サイードは精神的に疲弊して今年の1月に死に、甥のイスマーイールが君主となった。恐らくイスマーイールは外からの声に耐えきれず、強制労働は撤回せざるをえないだろう。ここからが見ものだ」


 イギリスはスエズ運河には今のところ否定的だ。ただ、フランスがどうしても作りたいというのなら、見返り次第では考えなくもないという立場だ。


 フランスには2人の当事者がいる。


 現場にいるレセップスと、皇帝ナポレオン3世だ。


 レセップスは運河に人生を賭けているから、取りやめなんて受け入れられるはずがない。一方のナポレオン3世もフランスの国益という点で運河を肯定的に見ている。ただし、レセップスほど切羽詰まっているわけではないから、イギリスの全面反対を受けてまで行いたいとは言えない。


 ということで、両国は水面下で「スエズ運河をどうするか」という話を進めている。


 もちろん、そこに当事者であるエジプトの意思はほとんど入らないし、オスマンはもっと蚊帳の外だ。

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