28章・イスラム地殻変動の兆し
第1話 燐介、エジプトに誘われる
ギリシャ王となったゲオルギオスは、しばらくはコペンハーゲンでカナリス首相と話をするらしい。
アテネに渡航するのは10月になるらしいから、まだ多少の余裕はある。
ロシア皇太子のニコライのこともあるし、俺達は一回、ロンドンに帰ることにした。
ロンドンに戻り、まずはニコライをイギリスの医師が診断する。
そこにアブデュルハミトがやってきた。相変わらず目つきは悪いが、以前と比べると少し穏やかになったような気もする。まがりなりにも妻(中野竹子)を娶ったからだろうか?
「おまえも相変わらず変わった奴だな」
しかし、口の悪さは変わらない。
「何が?」
「何故にロシアの皇太子なんか診療させるんだ? イギリスとロシアは仲が悪いんだから放っておけばイギリスにとって良いことじゃないか?」
「うーむ」
まあ、否定はできない。
現代人感覚としても、この時代に転生してきた感覚からしても、ロシアよりはイギリスだ。
ただ、見捨てるのは忍びないし、一応こいつはエドワードの義弟になるかもしれない奴だからな。
「そもそも、これでニコライに何かがあったら、『あの時ロンドンの医師が変な事をしたからだ』って難癖をつけて戦争になるかもしれんぞ」
うおぉぉ、確かに。
21世紀のロシアならそういうことをやってきそうだ。今だって、そうなっても不思議はないのか?
ところが、このアブデュルハミトの言葉が予想外の効果をもたらした。
「……一年半ほど前に事故って以降、背中がずっと痛む。痛みに耐えられない時もしばしばある」
ニコライが急に素直に状態を話し出した。
「俺は皇太子だから、弱みを見せられん。だから、サンクトペテルブルクでは黙っていた」
「……なるほど。患者が嘘をついたら、医師にはどうしようもないな」
皇太子という立場だと色々な儀式に参加しなければならない。それらは非常に責任のあるものだ。ひと昔前の高校野球でエースピッチャーが「肩と肘がちょっと痛いから明日は休みたい」なんてとても言えなかったことと似たようなものなのだろう。
俺は納得したが、何故、いきなりそれを正直に話し出したんだ。
「……お前達が俺を良くしようと思ってやってくれているのに、俺が黙っていたせいで戦争なんて事態になったらまずいだろう」
ニコライはムスッとした様子で言う。照れ隠しか、言い終わった後に視線をそむけた。
「男のツンデレは気持ち悪いんだが……」
「はあ!? ツンデレって何だよ?」
ニコライは照れ隠しもあって派手に怒っているが、アブデュルハミトの「最悪戦争」という言葉が逆にニコライに「自分の健康問題が大事になるかもしれない」と認識させたようだ。そういう点ではアブデュルハミトの無神経さに感謝すべきなのかもしれない。
背中が痛いというと、椎間板ヘルニアかねぇ。
医師ではないが、何となくそんなことを考えていたが。医師の見立ては違うようだ。
「これはポッツ病かもしれませんなぁ」
「ポッツ病?」
「いわゆる結核症状が、背中に行くというやつです」
あぁ、日本風なら脊椎カリエスか。
俳人にして野球人でもあった正岡子規はその病気で亡くなってしまったな。
結核だと厳しいなぁ。この時代の結核は不治の病のはずだ。
「ちなみに何でポッツ病というわけ?」
「エドワード・ポットという70年ほど昔の医師が症状を見つけたからです」
そうなんだ。
「ドクター、俺はどうすれば良いのだ」
「私からは、なるべく静養に努めるように、と言う以外ありません」
「むむぅ……」
ニコライは不満そうだ。
静養するしかないと言われればそうだろう。
ただ、医師にしても治療法がないんだから、そういうしかないだろうな。
「よし、それならエジプトに行こう」
アブデュルハミトが唐突に変なことを言いだした。
「地中海は優雅なところだ。島々で休めば静養になる」
それは分かる。現代ヨーロッパ人でも地中海付近でバカンスを取るというし。
しかし、おまえの動機は絶対にそれではないだろう?
「地中海は世界の要衝だ。トルコにとっても、イギリスにとっても、ロシアにとっても重要だ。リンスケ、おまえが行くギリシャにとっても」
「それはそうだな……」
「おまけにエジプトではスエズ運河なるものが作られていると聞く」
おぉ、スエズ運河か。
確かに、スエズ運河が開通すれば地中海の交通事情は一気に変わる。
人間なら紅海から地中海まで歩いて行けば良いわけだが、船荷は現時点ではそうもいかない。面倒でもアフリカを回ってくるしかない。
しかし、スエズ運河が開通すれば、紅海から突っ切ることができる。これはヨーロッパにとってはとてつもなく大きなことだろう。
確かに、これはイギリス、トルコ、ロシアにとって無視できないポイントだ。
のんびり船旅をしつつ、スエズ運河を見るというのは有意義だ。
とはいえアブデュルハミトの言いだしたことだ。それだけが目的とも言えないような気はするが……
ま、いいか。
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