第8話 未来に乾杯

「山口よ、これだけ尊皇攘夷の空気が満ち満ちている中で、一体どんなことを考えたというのか、一つこの佐久間象山が聞いてやろうじゃねえか」


 佐久間象山はかなり挑戦的な態度だ。かなり酒を飲んでいるはずだが、相当に強いのだろう。酒で判断能力がおろそかになっているようには見えない。


「それでは説明します」


 まずは清河にも説明した、封建国家と国民国家の原理だ。


 江戸日本は封建国家であり、担税者に限界があり、租税を生かす術もない。これをどうにかしなければならない。


 そのためには近代化を進める必要があるが、個々人だけではどうにもならない。大勢の有為の人材に西洋を学ばせる必要がある。そのうえで、日本国内では自分を含めた別の者達が残り、なるべく近代化に即した法体系と制度を作る、と。


 佐久間は口ひげをつまんでニヤニヤとしている。


「確かにその通りだが、言うはたやすく行うは難しだ。一太よ、どうやってそれを成し遂げる?」


「近代化の法整備については、主上から、そうするように言われております」


 この言葉には、さすがの佐久間も少し驚いた。


「帝から? それはたいしたものだ。だが、大勢の有為の者に西洋を学ばせるのはどうやってやるつもりだ? そんな金がどこにある?」


「幕府にはあるでしょう」


 私の回答に、佐久間は笑う。


「金はあるだろうな。しかし、あったとしても、今の幕府がそんな新しいことに多額の出費をできると思うのか?」


 半ば嘲るような笑いだが、これ自体はもっともではある。


 幕府は余りに多くの既得権を抱えている。それ以外のことに多額の出費ができるはずはないと考えるのは、当然のことだ。




 しかし、歴史に挑む以上、"当然"をひっくり返さなければならない。


「できます。いや、そのような出費にさせれば良いのです」


「……?」


 佐久間が初めて戸惑うような顔になった。


「どういうことだ?」


「幕府は今、イギリスとの間でトラブルを抱えております。生麦で薩摩がイギリス人を斬り殺してしまった案件について賠償金を求められております」


「あぁ、それは俺も知っている」


「幕府は最終的には賠償金を支払うでしょう。その資金を、日本人のイギリス留学費用に転用させることができれば、全て解決すると思いませんか?」



 一瞬の沈黙後、佐久間が叫んだ。


「何だとおぉぉ!?」


 腕組みをし、首を左右に振った後、「水を持ってこい!」と叫んだ。女中がすぐに酒瓶を持ってきてキレる。


「馬鹿野郎! 水だ! 酒じゃねえ!」


 多分、いつも酒のお代わりばかりしているから、女中は水のことを考えなかったのだろう。


 水が運ばれると、佐久間はそれを一気に飲み干した。頭をパンパンと叩いて、冷静に考えるつもりのようだ。


 次いで水を頭からかぶり、ブルブルと横に振った。そのうえで尋ねてくる。


「……そんなことができるのか?」


「できます」



 イギリスは生麦事件について心底怒っているわけではない。


 逆に薩英戦争では薩摩の意外な奮闘に興味を抱くとも言われている。


 資金に困っているわけでもない。


 だから、賠償金を転用させて、日本を親イギリスにできると確約すれば乗って来る。日本が味方になるのであれば、極東方面でのロシア対策にもなるわけだし。


 しかも、イギリスには燐がいる。彼からも働きかけをしてくれればそう仕向けることは難しくない。既に伊藤と井上もいるから、留学も難しくないだろう。



 そう説明をしたところ、佐久間はぽかんと口を開けた。


 佐久間だけではない。福澤と大村も「そんなことができるのか」という顔をしている。


「できます。いえ、松陰先生の言葉を借りるなら、絶対にできるよう行動あるのみです」


 私の回答に、佐久間はしばし無言だった。


 小さく手を叩いたところ、女中がやってきた。「酒を」と言い、程なく二合瓶が三本ほど運ばれてくる。


 瓶に触れ、佐久間が深い溜息をついた。


「俺はこの四、五年、悶々としていた。この国は世界を知ろうとしない。むしろ、時代の逆へ向かっているのではないか。その先にあるのは破滅しかないのではないかと」


「そうならないように、松陰先生をはじめ、多くの者が頑張ってこられました」


 佐久間が「うむ」と頷いた。


「俺は物を知ってはいるから、憂うことはできた。だが、知ってはいるが、それを他の者に理解させる才能がない。だから何もできなかった。ここ二、三年というもの、酒を飲んでもまずかった。酔ったふりをして逃げていた。しかし、今、山口先生の言葉を聞き、闇夜の中に月を見た思いです」


 佐久間はおずおずと酒瓶に手を伸ばす。


「今日、拙者は楽しく酔えそうです。山口先生、どうか共に酔っていただけぬでしょうか?」


「喜んで」


 そうは言ったものの、私はそれほど強くないから、福澤にも肘打ちした。「あっ」と声をあげて、福澤もすぐに従い、大村も共にする。


「この国の未来に乾杯!」


 福澤の音頭で、その晩はしこたま飲むことになってしまった。

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