第5話 一太、洪庵と語り合い、次への繋がりを得る
道中、特に何かが起こることもなく4月頭に江戸についた。
その日のうちに、早速、福澤と大村と緒方洪庵を訪ねる。
緒方はかねてから、西欧医学に詳しい者として幕府から招請を受けていて、前年やむなく応じて江戸まで来た。そこで西洋医学所の筆頭となるとともに将軍の奥医師ともなった。
もっとも、結果的には緒方自身が一年も経たないうちに病没してしまったし、史実では将軍・徳川家茂も脚気衝心で早逝している。
仮に緒方が長生きしていたとしても、脚気に関しては栄養の偏りから来る病気であったため、西洋医学の知識が役立つものとも言えない。文豪・森鴎外として知られる森林太郎のようにドイツに留学して医学を学びながらも、脚気の原因を曲解してみすみす死者を増やしてしまったというケースもあるのだから。
話がそれてしまった。
夕方、江戸・小石川の料亭に緒方洪庵がやってきた。
なるほど、風采はしっかりしているが、かなり疲れたような表情をしているし、顔色も悪い。医者の不養生という言葉は、まさに今の緒方洪庵を指すと言ってよいだろう。
「先生、この方が山口先生です」
福澤に紹介され、私が頭を下げる。
「恐らくこの日本でもっとも西洋に通じている人物でございます」
「とんでもございません」
福沢諭吉に「日本でもっとも西洋に通じている」と言われるとさすがに気恥ずかしい。
「いやいや、私も山口先生の噂はかねがね……。この年齢でそこまで西洋に通じているというのが素晴らしい。しかも二度、出られたのだとか?」
「そうですね。一度目は吉田松陰先生とともにアメリカとイギリスに行きました。その後、宮地燐介の要望に応じて、この時は逆回りに西へ行き、アジア、エジプト、フランスやイギリス、プロイセンにも出向いていますね」
「素晴らしいことです。私ももう20年程若く、今ほど有名でなければ日本を出たかったのですが、今の私は適塾にも、ここ江戸にも教え子が多くいる身分、1人、国を出るわけにもいかず、叶わぬ願いとなりそうなのが残念でございます」
50半ばの緒方洪庵の若い頃は、さすがにまだ幕末という時代ではない。
だから、海外に出るというのは現実的ではなかっただろう。そんな緒方は長崎の出島でオランダ人医師に学んで知識をつけたというが、本人の言う通り、もう20年も若ければ留学生としてアメリカやイギリスに行く機会もあったかもしれない。
「それでは、私達は戻ります」
と、福澤と大村はその場を辞してしまった。
自分達がいると邪魔になると気を遣ったのだろうか。
そこから、緒方の質問攻めが始まった。
その後、およそ三刻(6時間)ほど、話は続いた。
料亭にいるが、酒は進まない。体調があまり良くなさそうな緒方は非常にちびちびとやるだけで、私の方も途中からは茶に切り替えている。
年齢に関わらず、緒方は知識欲が旺盛で各国の状況などをつぶさに尋ねてくる。そして、意外なほど各国の状況などもよく知っている。これは正直びっくりするほどだ。
実際に海外経験の長い福澤がついているということもあるが、出島などとの人脈も広いのだろう。
話は尽きないが、緒方の健康状態は気にかかる。
「大丈夫ですか?」
そうでなくても不健康そうなうえに数時間も(酒量は少ないとはいえ)話している。見た目としても相当疲れているように映る。
それでも、緒方は笑って「何の、何の」と笑っている。知りたいことが体の辛さに優先するようで、更に半刻ほど話すことになる。
「……本日はありがとうございました。おかげで色々なことを知ることできました」
「お役に立てたのなら、何よりです」
「先生、私は現在53でございますが、55になれば隠居しようと思っております。その後は現在の適塾を福澤君や大村君に任せて、私は江戸で新たな塾を開講できれば、そう考えております」
「素晴らしいことですね」
緒方にはそういう構想があったのか。ひょっとすると、諭吉が開いた慶應義塾は緒方の遺志を受け継ぐものであったのかもしれない。
「ただ、この体調ではそう長くはないことでしょう。国や福澤君達の行く先を見届けられないだろうことは残念です」
「そのようなことは……」
気遣うような私の言葉を、無用とばかりに制して、緒方は自らの話を続ける。
「ただ、私と同年代ながら佐久間象山はまだまだ元気なようで、これからの国を担いうる人物だと思っております。気難しい性格をしていると聞いておりますが、先生ならあるいは佐久間象山を担ぎ出すことができるのではないでしょうか」
「佐久間象山ですか……」
確かに幕末の西洋通と言えば、佐久間象山を外すことはできない。
というよりも、私も全く面識がないわけではない。
佐久間象山は松陰先生の師匠格だから、だ。
9年前に、松陰先生が下田からの密出国を企てた時にも事前に佐久間象山と相談している。その相談には私も立ち会っていた。
その当時の私は、まだ以前、いや、未来の記憶が戻っていなかったから多分冴えない男だくらいの認識だろう。下手すると、「そんな奴いたっけ?」くらいに思われているかもしれない。
史実では、松陰先生の密出国に連座させられる羽目となり、しばらく伝馬町の牢獄に繋がれていたはずだ。この世界では松陰先生は無事に密出国が出来たから、その部分では多少変わっているのだろうか。
「佐久間象山は今、どのような状況でしょうか?」
「えぇ、弟子の吉田松陰が老中暗殺を企てた際に相談したということで、しばらく伝馬町の牢獄に繋がれていたそうですが、少し前に釈放され、現在は松代にいるそうです」
……理由は変わっているが、松陰先生に連座して牢獄にいたことは変わらなかったらしい。
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