第13話 燐介、ベトナムを歩く
上海を出て一日、俺達は阮朝ベトナムの首都であるフエに着いた。現地では中国風に
阮朝の少し前の時代、扶南の都はもう少し南のホイアンにあった。
その後、紆余曲折を経てベトナム中部の中心地はダナンに移っている。ただし、この時代のダナンは寂れた港町だ。徳川家康がやってくる前の江戸のようなものだろう。
上海にいたゴードンや宣教師が気を利かせてくれたおかげで、フエについた俺達をすぐに英語の分かる宣教師が出迎えてくれた。とは言っても、ベトナムに影響力のあるのは元来フランスであり、多くはフランス人だ。
俺は、フランス語を得意としていない。多分、一年以上海外部隊に所属していた沖田総司の方が上だろう。
とはいえ、分かる範囲ではフランス語で話をする。
これは現代日本人も体験済だろうが、海外から来た人間がたどたどしくても日本語でコミュニケーションを取ろうとしていれば、聞く側も何とかしてあげたいと思うものだ。
フランス人はプライドが高いというが、遠くベトナムまで来てそこまでお高く留まっていても仕方がない。単語レベルでもフランス語で話をすれば、彼らもさっさと用件を済ませたいから協力的になってくれるものだ。
もっとも、これで同行している連中が勘違いをする。
「燐介はフランス語も出来るのか!?」
伊藤と井上が驚いているし、イネさんや竹子も驚いている。
そういうわけではない。
ただ、これは現代社会にもつながる問題であるのかもしれない。
この時代、フランスがベトナムを支配していて、主要都市に行くとフランス語が出来る人間が上の立場についている。彼らはヨーロッパの価値観になじんでいるので、ヨーロッパ風の人間……つまり、俺のような人間には敬意を払う反面、現地人は下っ端とみなしている。
俺はもちろん、一緒に来ている面々もベトナムの言葉は分からないから、どうしてもフランス人宣教師や管理者の言葉を真に受けることになる。
しかし、現実はそんなに簡単なものではない。
清朝と太平天国が争っている中国が典型例だが、それぞれの国というのは一つの価値観で支配できるほど楽なものではない。ベトナムの場合、北から来た中国系、西にいる山岳系、タイやカンボジアから来た人、海を渡って来た人という具合に多くの民族が住んでいる。
それを一律に管理することは不可能だが、フランス人は一律に管理している。
彼らだけの話ではなく、21世紀のイラクやアフガニスタンでも一律に管理しようとして失敗してしまった。
もちろん、英語が出来るところでは平穏無事だったのだろう。今の俺達がカタコトのフランス語で何とかできているように。
でも、それではダメなのだろう。
19世紀ベトナムでフランス語が出来る人間がどれだけいるのかというと、それほどはいないはずだ。しかし、大都市にいるフランス人宣教師や有力者たちはフランス語で全部何とかしようとしている。
それは無理なことだ。
こうした問題が世界中で起きていて、それが今でも尾を引いているのかもしれない。
19世紀以降の中国は国家の混乱もあって、スポーツどころでない形で歴史が進展していた。それが今にも及んでいると思う。
ベトナムにしても似たようなところはありそうだ。
フエの街を歩いていると、闘鶏は至るところにある。
メキシコと同じで遊戯を楽しみたいという人間は多い。ただ、それを全面的に享受できるほどには国が成熟していない。ヨーロッパには競技場が幾つかあるが、そんなものを作るくらいなら別のものを作りたいというのがアジアの考え方だ。
中国も同じだが、何かを変えれば一気に良くなるのではと思う反面、その何かが何であるかが思いつかない。かなり歯がゆい状況だ。
「皇帝陛下と面会しますか?」
宣教師の一人がこう聞いてきた。
皇帝と会えば、何かが変わるのかもしれない。ただ、正直そんな気になれない部分もある。俺自身が皇帝と直接コミュニケーションが取れないからだ。英語でイギリス皇太子と会話が出来たイギリスとはそこが決定的に違う。
距離的には近いが、アジアを理解するのは難しい。
19世紀に戻って、そのことが理解できた気がした。そもそも20世紀の経済大国だった日本ですら、彼らとどこまで理解しあえたかというと微妙なのだから。
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