第12話 燐介、19世紀ベトナムを知る

 上海からベトナムへ向かう船を用意する傍ら、ベトナムの人間を探してみたが、誰もいない。


「ベトナムは厳しい体制を取っていると聞いている。出国がばれたら死刑になるから、上海で見ることはないな」


 李鴻章が言う。


 そうなのか。


 日本同様、かなり厳しい解禁政策を取っているんだな。


「ベトナムもアヘンの流入など、色々悩まされていたというからな。ただ、きちんと臨検させるのであれば、入港できたはずだ」


 面倒くさい話だな、と思っていたら聞きつけていたゴードンが言う。


「……最近まではそうでしたが、去年、フランスが倒したので通商船は自由に往来できるはずですよ」


 おいおい、話が食い違っているぞ。


 おそらくは、海外の情報と接しているゴードンの方が信用できるんだろうけれど。



 この時代の歴史については知識が少ない。インドは多少知っているが、ベトナムやタイについては正直全く知らない。


 上海である程度知っておいた方が良さそうだ。



 この時代、軍人よりも宣教師の方が海外事情について詳しい。


 軍人は武器だけでも何とかなるが、宣教師は相手側の事情も押さえておかないと布教ができないという問題があるからな。


 上海にはそうした宣教師が何人かいる。


 ゴードンが手配してくれたこともあるし、俺はこう見えて、ローマ教皇ピウス9世と面会したこともある。


 俺自身はカトリック信徒ではないが、教皇とサシで話をしたという実績は大きいから、相手も協力的だ。


 知っている限りのことを教えてもらえた。



 それによると……


 この時代のベトナムは、中国と似たような王朝が立っていた。


 漢字で書くと阮朝。現地読みだとグェンになる。



 阮朝を立てたのは阮福暎グェン・フォック・アインという男だが、より重要なのは彼のバックにいたフランス人宣教師のピニョー・ド・ベエヌという男だ。


 阮福暎は決してダメな人物ではなかったようだが、この時代のベトナムには阮恵グェン・フエというより強い存在がいた。阮恵は阮福暎一党を攻撃しつつ、攻めてきた清に勝利し、タイにも勝利していたというから滅茶苦茶強い。


 そんな相手に追い詰められたので、阮福暎はもうどうしようもない。


 ピニョーに息子を託して、フランスの救援を求めたという。息子は無事にフランスまで行って、ルイ16世とも面会したという。


 それでフランスが公的に支援をしてくれることはなかったが、義勇軍などがやってきた。ラッキーなことに阮恵が急死したので、阮福暎はベトナムを統一することができて嘉隆ザーロン帝と名乗った。



 この過程で、ベトナムとフランスの関係が形成されて、当然、ピニョーへの恩義もあるから嘉隆帝はキリスト教も認めることとなった。


 ただし、ここから先、フランスとの関係は一気に悪化していく。


 大きなきっかけはフランスまで派遣された上の息子の早逝だ。このため、嘉隆帝が死ぬと別の息子が明命ミンマン帝として立った。



 この皇帝の時代にベトナムはタイと戦争をして、東南アジアでは強力な勢力を築いた。



 ただ、貿易という点では米の密輸出にアヘンの密輸入という問題があり、苦労することになったらしい。それで先程話をしていたような鎖国とも言うべき厳しい政策が取られたわけだ。


 曽孫の嗣徳帝トゥドゥックが立つ頃には、更に不満が高まっていて、キリスト教を排斥するまでに至った。12年前のことだ。



 フランスはすぐには反応できなかったが、7年前にナポレオン3世が使節を派遣した。キリスト教宣教師の保護と交易について話をしようとしたが、阮朝はこれを拒否した。この回答を受けてフランスが軍を派遣して、主要都市を占領。阮朝が屈する形になって、通商の自由が復活したわけだ。


 これが良いことか悪いことなのかについては何とも言えない。ここから先、ベトナムはフランスの保護国となっていくだろうから、だ。



 太平天国が滅び、イギリスが日本に目を向けるようになったのが1864年。


 一方、ベトナムでは反仏運動がこの時代リアルタイムで進行中していて、フランスが全面的に日本に目を向けるまでには至らなかった。


 日本がモタモタしていたら、中国やベトナムのようになっていたのかもしれない、と考えると結構ギリギリのタイミングだったと言えるのかもしれない。



 実際、伊藤も井上も世界地図を見て、渋い顔をしている。


「このまま国内で攘夷・開国と程度の低い争いをしていたのでは、日本も清国やベトナムのようになってしまう。もっと根本から変えなければならない」


 そう実感したようだ。



 野球のことしか考えていない以蔵は、そうした話も馬耳東風といった様子だったが……

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