第5話 燐介、西太后の招きを受ける①

 現地の実力者・李鴻章に気に入られたことにより、上海での生活は大分楽になった。


「あれが崇明島すうめいとうでございまして、鄭成功が北伐を行った時に名将・梁化鳳りょうかほうが籠城したところでございます」


「へぇ」


 鄭成功は知っているが、母親が日本人であるということと、台湾のオランダ人を追い出したくらいしか知らない。上海を攻撃したなんていうことは全然知らなかったな。


「鄭成功は崇明島を陥落させることができず、無視して南京を攻撃しまして、大敗の原因となったのでございます」


「なるほどねぇ」


 歴史を感じさせる話ではあるが、一方で鄭成功は撃破できたけれど、イギリス軍には全く敵わなかったと考えると、何だか寂しいものも感じる。


 そういえば、大学で「上海の歴史は近代に始まるが、その分、上海人はその近代史に誇りを持っているのだ」というような話を聞いたことがあるな。北京とか南京ほどの歴史がない分、近年のことを詳しく覚えているのだとか。


 アメリカも歴史が浅い分短い中での事象にはこだわりがあるというし、似たようなところがあるのかもしれない。



 二日の間、上海めぐりをして、満漢全席も食べまくって、俺達一行は非常に満腹になっている。イギリスやアメリカと違って、食事にこだわりがあるからやっぱり美味いんだよなぁ。


 その夜、ご馳走を食べ終わって、宿舎へ戻ったところで随分物々しい連中が並んでいた。といっても、警察とかそういう感じではない。誰かを迎えに来た使節のようだ。


「何だ、おまえたちは?」


 李鴻章が不機嫌な顔をして問いただしたところ、使節の先頭にいる男が「それはこちらの台詞だ」と重々しい声で言った。


 李鴻章は目に見えて怒った。おそらく相手の無礼さ以上に「俺が日本からの客人をもてなしているのに、顔を潰すような真似をしやがって」というのがありそうだ。


 相手は平然としている。


「我々は紫禁城から来た。勅命を持ってきたのであるぞ」


 簡潔に言い放ち、李鴻章が「えっ」と声をあげる。


「紫禁城から?」


 紫禁城というのは、もちろん、北京にある皇帝の居城のことだ。


 そこから勅命を持ってきたということは、皇帝の命令を受けてやってきたということだ。いかに現地実力者の李鴻章といえども無碍に追い返すことはできない。ただ、何のためにこんな夜に李鴻章を訪ねてきたのか、という疑問はあるが。


「左様。恭親王閣きょうしんのう かっか下と西太后様からの使いとしてやってきた」


 あ、ちなみに俺達はもちろん中国語のことは分からない。基本的には李鴻章のスタッフに英語で説明してもらっている。



 李鴻章は仰天したが、俺も同じだ。


 西太后、清の滅亡に大きく影響したと言われるその名前を聞くことになるとは……


「一体、何用だ……!?」


「ここには日本から来た、イギリスと親しき者がいるという。その者を紫禁城まで連れてこいという仰せだ」


「えっ……?」


 それはもしかして、俺のことか?


「いや、しかし……」


 李鴻章が尚も反論しようとするところで使節が一喝だ。


「これは恭親王閣下と西太后様、すなわち皇帝陛下からの要請である! しかしもかかしもない! 今日中に上海から天津に向けて出港させよ!」


「は、ははーっ!」


 皇帝の勅使がこれだけ居丈高だと李鴻章も従うしかない。深々とお辞儀をして、罰の悪い顔を俺達に向けてくる。


「してやられた。どうやら曽国藩は俺が手柄を立てすぎることを恐れているようだ」



 曽国藩と李鴻章は師弟関係にあって、決して仲が悪いわけではない。


 とはいえ、弟子分の李鴻章が活躍しすぎるのは曽国藩にとって面白くないだろう。あるいは本人が了承していても本人周囲が納得していない。


 スパイというと語弊があるが、曽国藩と親しい連中は上海にもいて、急ぎ伝えたらしい。「上海にはイギリス皇太子と仲のいい東洋人がいる」と。


 これが皇帝近辺に転送されて、イギリスに悩まされている皇帝を含めた首脳連中が俺に興味をもったということなのだろう。


 参ったな。


 俺は確かにイギリスの外務大臣とも知り合いではあるが、清に関することを任されたことはない。期待されても全く役に立たないんだが。


 それ以上に西太后だろ……。


 歯向かったら、ロクでもない目に遭わされそうな気がして、乗り気にはならないなぁ。


 とはいっても、李鴻章の様子を見ていると断ることはできなさそうだ。



 北京かぁ。


 行くのは構わないのだが、どのくらい滞在しなければならないのだろうか。


 他にやることもあるのだし、長居はしたくないんだがなぁ……。



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※恭親王というのは後に洋務運動を主導した奕訢えききんのことです。

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