第9話 松陰の推薦状

 桂小五郎の先制攻撃(口撃?)に、清河八郎の顔が見る見る赤くなる。

 清河は学問でも剣術でも高い能力を持つ俊英であったという。「おまえさんは口論では相手を徹底的にやりこめるだろう。そういうのは良くないよ」という忠告を貰っていたくらいらしい。

 そんな彼が、「おまえは松陰先生より下だ」などと言われたのだから、面白くないことこの上ないだろう。

 血が降ることになるかもしれない。

 ただ、それは最初から分かっていたことだ。

 殺すならば殺せばいい。ある意味諦観めいた思いもある。


 ひょっとしたら、幕末の志士というのはこういう心構えで死地に向かっていたのかもしれない。


「……つまり、桂先生は、吉田松陰先生と同じく、山口先生がいなければ攘夷がならないと思っているわけですね」

「左様。あぁ、ただ、山口先生だけではない。もう一人いますね」

「もう一人?」

「宮地燐介先生です」

「……!」

 ここでまさかの燐の名前とは!

 清河は明らかに戸惑っている。

 それはそうだろう。宮地燐介は七年前、本人が数えにして14歳、満にして12歳の時に日本を出たのだから、知っている方がおかしい。

「宮地先生は齢20にして、その才は世界に轟いております。諸外国の王も宮地先生を無視することはできません」

 まあ、確かに燐の交友関係は広い。

 アメリカ大統領は知り合いだし、英国女王はともかく王子は友達だし、政府要人も何人か知っているという。

 フランス皇后やオーストリア皇后も知り合い。ローマ教皇とも面識がある。

 これだけ世界の要人を知っている日本人はいない。別格の存在と言ってもいいだろう。

 しかし、あまりに荒唐無稽すぎて信ぴょう性がなさすぎる。

 清河も呆れたように笑いだした。

「桂先生、法螺ほらを吹かれては困ります。そのような人物など、いるはずもないでしょう」

 まあ、こういう反応になるだろう。

 桂はどう返事をするのか。


「清河先生、井の中の蛙大海いのなかのかわず たいかいをしらずを知らずという言葉をご存じですかな?」

「……私を井の中の蛙だとおっしゃるのか!?」

「そこまでは言いません。ですが、世界というものは実に広いのです」

 桂は懐に右手を入れた。古い手紙のようなものを取り出す。

「これは、私が松陰先生から受け取った最後の書状です」

 と開いた最後には「吉田寅次郎とらじろう」という松陰先生の通称名がある。松下村塾の塾頭としての吉田松陰ではなく、人間吉田寅次郎として書いた、ということなのだろう。


『親愛なる同士・桂先生へ

 先日の先生の拙者への諫言、心の底にまで染みわたりました。人間、百人の付和雷同する友を持つより、真に諫言をなす友を一人だけ持つことが遥かに幸せと言います。先生はまさに拙者にとって真に諫言をなす友でありました。

 いずれ先生も知ることになると思いますが、拙者は、梅田雲浜うめだ うんびんとの交友関係を聞かれて江戸へ向かうことになりました。

 この際、大老・井伊直弼と渡り合うことも考えております。

 また馬鹿なことを、と先生に思われるかもしれませんが、故あってのことでございます。

 拙者の弟子共は言葉だけは一丁前となりましたが、行動するということが何たるかを理解しておりません。今のままでは永遠に理解しないでしょう。しかし、拙者が死ねばさすがにその意味するところを考えるでありましょう。そうであってほしいと願っております。


 これからの日ノ本を動かすのは拙者の弟子共ではなく、桂先生だと信じております。ですが、先生の力をもっても、一人でできることは限られていると思います。

 先生に今後も良き出会いがあることを願うばかりでございます。

 拙者は愚昧な人生を歩んでまいりましたが、二人これはという者を知ることができましたので、先生に勧めたいと考えております。土佐の宮地燐介と、播磨の山口一太と申すものです。

 この二人は、拙者如きの考えを遥かに超越したものを持っており、その思考の深さや神の如きです。必ずや先生のためになる者だと思いますので、どうかお会いください。

 先生と語り合いたいことは泉のように尽きず、まだまだ言いたいこともございますが、無駄に長い話は真意を損ねるとも言いますのでここで終わりにしたいと思います。

 先生、どうかお体をご自愛ください。

 長州を、日ノ本を変えてください。

 吉田寅次郎』


 末尾には吉田寅次郎の署名の他、矩方のりかたという諱と花押も記されている。

 ということは、これは桂小五郎に送った遺言であると共に、私と燐を世に勧めるための推薦文ということにもなるのだろう。

 こんなものを残されていたとは、思ってもいなかった。


「清河先生、これでも山口先生の言は聞くに値しないものとお思いですかな?」

 桂の言葉に、清河は「ふむ」と腕組みをした。

「確かに、これだけ大掛かりな法螺をいきなり用意できるとは思いませんし、この筆跡も松陰先生のもののようです。分かりました」

 姿勢を正す。

「議論をして、聞かないのであれば斬ろうと考えておりましたが、松陰先生がここまで語る人物であれば聞かないわけにはいかないでしょう。一手御指南いただきたく存じます」

 清河が高橋と河上の方を向き、目で語り合う。

 それとともに気のせいか、二人の殺気が薄れたように思えた。


 一難去ったということかもしれないが、清河相手に指南しなければいけないというのはまた大変だ。

 胃がキリキリと痛んできた。

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