第3話 一太、南アジア事情を語る

 香港に一日滞在すると、船はすぐに西へと向かう。

 向かう先はシンガポールである。


 シンガポールはマラッカ海峡の東側にある。

 すなわち、世界の交通路の中でももっとも重要な地域を占めていることになる。

 19世紀初頭にイギリスが租借した時には小さな島であったが、瞬く間にアジア支配の要所となった。


 その説明については、繁栄よりも喪失にまつわる記録の方が分かりやすいかもしれない。

 英国は日本軍にシンガポールを占領されたことでインド洋を把握できなくなり、マダガスカルなどアフリカ沿岸まで日本の攻撃を許すこととなった。これは同時にオーストラリアが孤立する事態ともなった。

 何より、要塞化したアジア支配の最大拠点シンガポールを失ったということは大英帝国の威信を致命的に傷つけた。シンガポールを失ったことによって世界最強国がイギリスからアメリカに移ったと言っても過言ではない。


 もちろん、イギリス人の前で、将来シンガポールを失うかもしれないと言うことは言えないが、イギリスにとってどれだけ重要であるかを説明することはできる。

「日本においては下関や門司などがこうした場所と言えるでしょうが、世界においてのそれがシンガポールなのです」

「ここを保有しているから、イギリスは世界最強と言えるわけですか……」

 桂も香港で買った世界地図を眺めながら、頷いていた。

「世界最強は言い過ぎにしても、アジアで最強であるためには必要でしょうね」

 私の説明に、イギリス士官も「そうだったのか」という顔をしている。


 シンガポールで二日を過ごすと、更に西へと向かう。

 次の目的地はセイロンだ。


 セイロンは安定した場所であるが、使節の関心は当然、大陸側のインドへと向けられる。

「インドとセイロンというのは、中国と日本のような関係なのでしょうか?」

 近づくにつれ、使節団から問い掛けられた。

「必ずしもそうとは言えませんね。確かに海で隔たれていますが、中国と朝鮮の関係に近いかもしれません」

 日本は中国から影響を受けてはいるものの、多少異なる国家となった。

 しかし、セイロンはインドの影響が極めて強い。インド側の勢力に飲み込まれたことも何度もあるし、イギリスの政策支配のためにタミル人が連れられてくるなどの問題も起きている。

「……となると、我らもイギリスに負けることになると、イギリスの都合で中国と行き来させられる可能性もあるわけですか」

 桂が渋い顔をした。


 ありえない話ではない。セイロンにはシンハラ人とタミル人という二つの民族が有力だが、イギリスはセイロン支配において大人しいタミル人を優遇した。数が足りないのでインドに住んでいたタミル人も連れてきたくらいだ。

 この影響もあってか、独立後はシンハラ人が優遇されることとなり、タミル人が反発して一部がテロ活動に走るということもあった。

 同じことが日本で起きなかったとは言えない。日本の攘夷活動はかなりイギリスの手を焼かせていた。下関戦争や薩英戦争で全く反省がなかったとすれば「大人しい連中を連れてきて、日本人を少数派にしよう」と考える可能性もあっただろう。


「……そうですね。ですので、イギリスに歯向かうのではなく、認めさせる方向でなければなりません。この船も含めたシンガポールや香港の船に対して攘夷ができるというのなら話は別かもしれませんが」

「それは無理でしょう。これに追いつくのは現状では無理です」

 桂は険しい顔をして、周囲を見回した。人気のいない方向に顎を向ける。

 頷いて並んで歩くと、桂がポツリと言った。

「これに追いつくためには、幕府も、大名も倒さないとダメでしょう。武士がいる限り、永遠に追いつけません。違いますか?」

「……かもしれませんね」

「吉田先生は、問答無用の行動をする覚悟が必要だ、と良く言っていましたが、なるほど、普通の覚悟では足りません。それがよく分かりました」

 桂の言葉は重い。

 明治維新後、日本は四民平等を実現させた。もちろん、完全な実現はなかったのかもしれないが、それでもかなりの部分で実現させた。

 そのうえで不平士族の反乱を徹底して潰した。

 維新の殊勲者であった西郷隆盛も含めて、だ。


 今の桂がそこまで想像したのかは分からない。

 とはいえ、維新三傑の一人たる彼だ。近いところまでは想像できたのではないか。

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