第3話 燐介、諭吉にフットボールを説く①

 咸臨丸がここまで来た目的の一つには、日米修好通商条約の批准書を持ってきたというものもある。だから、アメリカ大統領か議会に批准書を渡す必要がある。

 その一方、咸臨丸の修理が終わったら、日本に帰りたいという者もいる。

「拙者も、用件は済んだから日本に戻ってもいいのだが」

 諭吉が英語と中国語の辞書を携えて戻ってきた。目的としては英語の理解というその一事だったらしい。

「ただ、山口殿は貴殿について行った方が良いと言っていたので、しばらくついていきたいと思う」

「……まあ、勝手にしたらいいけど。あ、そうだ。剣術が得意なのなら、フットボールの練習でもやってみるか?」

「ふっとぼーる? それは一体何だ?」

「チームが練習をしているから見に来いよ」

 不思議そうな顔をしている諭吉を、市内の練習場へと連れてきた。

 ちょうど練習開始ということで、全員がジョギングをしてパス回しの練習をしている。

「これも簡単なように見えて、結構難しいんだぜ……ぐへぇ!」

 振り返ったところに諭吉の右フックが飛んできた。まともに食らって、二メートルほど吹っ飛ぶ。

「な、何をするんだ!?」

 頭に来て叫んだが、諭吉の方も顔を真っ赤にしている。

「貴様は拙者を謀っているのか!?」

「はぁ?」

「日ノ本が危機に瀕している時に、呑気に鞠遊びなど、何を考えているんだ!」


 あ、あぁ、そういうことか。

 まあ、確かに真面目に日本の改革を考えている面々からしたら、俺がやっていることは遊びに見えてしまうのかもしれない。

 いつの時代だって父親は息子にこんなことを言うはずだ。「遊びはほどほどにして勉強しろ」と。わざわざアメリカにまで行ったなら、日本の国益のために何かをしろと言いたいのだろう。

 初見の諭吉に、オリンピックの概念を理解させるのも難しいだろうしなぁ。

 と思っていたら、付き添いにいたジョージ・デューイが擁護してくれる。

「確かにリンスケは変わっていますが、彼はこうした知識で多くの知己を得ているのです」

「多くの知己?」

 諭吉の顔は明らかに馬鹿にしたものだ。ここにいる面々がアメリカの少年団だから、どうせそんなものだろうくらいに考えているのだろう。

「拙者にしても、写真館で誰か一緒に映りたいと言えば、女の子の一人や二人は応じてくれるはずだ」

 この野郎……。

 ただまあ、こいつも結構男前ではある。お札のイメージと名前から福福しさをイメージしていたが、結構爽やかな感じだ。

「そうですな。例えば、イリノイ州上院議員や、大統領候補数名、英国女王とその王子……」

 諭吉の顔が途端に蒼ざめてきた。

 これは愉快だ。ちょっとしたざまぁ、って奴だな。

「フランス皇后とオーストリア皇后、あとはサルディーニャ首相とローマ教皇とも会ってきたぜ」

 というか、俺ってもしかして凄いんじゃないか?

 まあ、カール・マルクスみたいな友達になりたくない奴もいたりするのは事実だが。

「な、何だと……?」

「山口だって、俺のことを評価していたんだろ? 日本の価値観だけで測ってもらっては困るなぁ」

「ぐぬぬぬ……」

 諭吉は悔しそうに俺を見た後、大きく溜息をついた。

「欧米に追い付くためには、このようなものが必要だということか?」

「そういうわけでもないんだが、富国強兵だけで世の中が進むわけじゃないし、色々なものごとは繋がっていると思うよ」

「……十一人同士で、優劣を競うわけか?」

 再び、練習に視線を向けて諭吉が問いかけてきた。

「そうだよ」

「ということは、少人数での兵術などに繋がるというわけだな」

「あぁ、まぁ、そうかも……」

 フットボールが兵法に繋がるかは分からないが、その昔、土佐藩でやっていたように野球なんかは戦争用語とも関連性がある。

「ならば、もうしばらくこのフットボールというものを見極めてみることにしよう。帰国は取りやめだ」

「そうすると、英語の辞書はどうするんだ?」

「あれは中濱殿に持って帰ってもらう。日本語と英語の辞典については彼に作ってもらうことにした」

 諭吉が宣言する。

 うーん、これはまずいな。

 福沢諭吉は幕末から明治にかけて学芸面で貢献する人物で、彼がいないとなると明治日本に少なくない影響が出てしまう。さすがにスポーツに引きずり回すわけにはいかないだろう。

「いや、戻った方がいいと思うよ」

「ならぬ。拙者は欧米というものがどういうところかしかと見極めたいと思っている。手始めに、このフットボールがどう欧米の生き方に繋がっているか確認しなければならない」

 うーん、ちょっと、面倒くさいことになってきたかもしれない。

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