幕間・松陰を継ぐ者(山口視点)
欧米に賭ける男
松陰先生が処刑されて一か月。
俺、山口一は砂を噛むような生活を送りつつも、大老井伊直弼の指示を受けて幕府の仕事を行っていた。
「一太よ。一つ頼みたいことがある」
師走に入った頃、大老から呼び出しを受けた。
「何でしょうか?」
「今度、アメリカに日本からの使節を送りたいと思う。その責任者として行ってくれぬか?」
ああ、咸臨丸のアメリカ行きのことか。
アメリカには行きたい。というよりも、燐に会って今後のことを話したいという思いが強い。
しかし、桜田門外の変を控えている以上、俺が日本を離れるわけにはいかない。井伊直弼は半ば覚悟しているようであるが、できれば何とか難を逃れられればという気持ちはある。
「アメリカには宮地燐介と沖田総司が行っております。私が行くよりも、有為の若者を派遣する方がためになるのではないかと」
「ふむ……。では一太よ、その選抜に当たれい」
大老の鶴の一声で、俺は咸臨丸のアメリカ行きのメンバーを選ぶ要員に入れられた。
師走の十日、太陽暦だと11月くらいであろうか。
史実よりも若干早いように思える。俺や亡き松陰先生が洋行して戻ってきた影響もあるのだろうか。
松陰先生……。
何故、あのような早まった形で最期を迎える必要があったのか。
弟子達の不甲斐なさに憤激して、自己の死をもって発破をかけたかったという気持ちは分かる。ただ、もう少し別のやり方もあったのではないだろうか。
松陰先生のような天才は、この日本にそうはいないのだから……。
五日後に俺のところに報告が上がった。
「山口様、今のところこのような者達が候補に挙がっておりますので、山口様から何かありましたらお知らせください」
「……拙者が報告することなどあるのか?」
俺にそんな権限があるとは思えない。そう思ったのだが。
「ご冗談を。大老様の寵臣である山口様から一言あれば、すぐに変わりますとも」
「……分かった」
大老の信任は有難い。
しかし、大老は水戸藩をはじめ、多くの者から恨まれている身でもある。
この信任、俺にとっても痛いものとなるかもしれないな。
そう思いつつ、俺は差し出された志願者一覧を眺めてみた。
「あっ……」
「どなたかいらっしゃいましたか?」
思わず声をあげた俺に、報告にきた下級武士は何かを感じ取ったのだろう。
俺もそれを隠すことはしない。
「うむ……。一人、入れてほしいものがいる」
「結構なことでございます。明日、呼んでまいりましょう」
下級武士にとって、上役の希望を叶えることは自分の出世に繋がることでもある。だから、彼は必死だ。
それに乗っかかることが良いのか悪いのか分からないが……。
「この男を連れてきてくれ」
俺は素直に頼むことにした。
翌日、下級武士はすぐにその男を連れてきた。
俺の知る彼は、いや、ほぼ全ての日本人の知る彼はもっと年老いている。その認識とはかなり違うが、いい面構えをしている。
「
「山口一太だ。アメリカ行きに志願したと聞いてきてもらった」
「はい。拙者は大坂・適塾において蘭学を教えておりました」
男の自己アピールが始まった。朗々たる様子で実にほれぼれする。知らない者が聞いたら一度に心酔するかもしれない。
しかし、俺は彼のことを知っているから、そこまでの感銘は受けない。
というよりも、彼が、この時、この年齢でいるということ自体が完全にノーマークだったことに「しまった」という思いだった。
歴史というものは実によくできている。松陰先生亡き後、それに匹敵する才能がすぐに出ていたのだから。
「一年ほど前、横浜に行きました。拙者はオランダ語に関してはこの日ノ本で人後に落ちることはないと自負していたのですが、世界がオランダ語ではなくイギリス語で動いているという事実を知りました。以降必死に英語を学びました。それなりのものはあると思います。しかし、今後、日ノ本に……、いや、亜細亜に貢献すべく、本場で英語を試したいと思います。どうか、拙者に渡米の機会をお与えくださいませ」
「うむ。渡米について心配しなくていい。私が大老に掛け合ってでも、行かせることにする」
「あ、ありがとうございます!」
福沢は平伏して感謝を露にしつつも、一方で不信そうな顔もしていた。
俺が何故そんな約束をするのか理解できないのであろう。
「私はおまえのことをよく知っている。だから渡米については心配する必要がない。しかし、アメリカに行った後、一つやってもらいたいことがある」
「拙者にやってもらいたいこと?」
途端に自信のなさそうな顔をした。無理もないだろう。「異国であれをやれ」と言われて自信をもつ者がいるとしたら、むしろそちらの方がおかしい。
「気に病むようなことではない。先んじてアメリカに行っている日ノ本の者がいる。その者に会えと言うだけのことだ」
「……既に日ノ本の者がアメリカに?」
「そうだ。宮地燐介と沖田総司というのだが、この者に会ってもらいたい。ひょっとしたらイギリスにいるのかもしれないが、その場合は何とかどこにいるかだけ聞いてもらえまいか?」
結構無茶な頼みかもしれない。
しかし、福沢はしばらく思案して、「分かりました」と頷いた。まあ、アメリカに行きたいがための安請け合いであるのかもしれないが。
「拙者の力の限り、その宮地殿と沖田殿を探してみせます」
とはいえ、目の前で福沢が平伏するのは何となしの優越感がある。
「頼んだぞ、
俺はそう言って、きょとんとしている諭吉の肩を軽く叩いた。
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