第6話 一太、若き将軍の輔弼を誓う

「大老様、私は自分のことを思い出しました。私には預言の才能があるようでして、時々、鮮明に未来のことが分かるのです」


「ほう……」


 かなり苦肉の策だが、さすがに「未来から来た」とは言えない。


「私の目に、雪の日に大老様を襲う浪士達の姿が見えたのでございます」


 両手を広げて、はっきり見えるぞ、というようなアピールをする。本当は全く見えないし、実際の襲撃がどんなものなのか想像もつかないのだが。


「なるほどのう」


 直弼の反応は薄い。他人事のような反応だ。


「……ですので、護衛の方をしっかりつけておいた方がよいかと思います」


「ふむ……」


 ふむ、じゃない。自分のことなのだから、もう少し危機感を持ってほしい。


「一太よ、仮にそうだとしよう。しかし、わしが『何者かに襲われるかもしれない』とみっともなく警護を固めたら、他の者はどう思う?」


「他の者ですか……?」


「我々はあんな臆病者のために命がけで働いているのか、と、そう思うのではないか?」


「……否定はしません」


 桜田門外の変は衝撃的な事件ではあるが、それ以前に井伊直弼の下に複数のルートから「危険だ」という警告がなされていたと言われている。


 そのことごとくを直弼は取り合わなかったという。


 先頭に立つ者が怯んではいけない。この言葉に嘘はないのだろう。


「ですが、事が起きた際に幕府に与える影響がどれほど大きいかお考え下さい」


 松陰先生もそうなのだが、井伊直弼も自分が不在になった後のことを軽く考えすぎている。死ねば後のことはどうでもいい、みたいな考えでいるのではないか?


 俺に言わせれば無責任である。残される者達のことも少しは考えてほしい。


「大老様に万一のことがあれば、水戸徳川家が報復に乗り出し、多くの者が処罰されるかもしれません」


 説得をするが、効果は薄い。


 直弼はフッと冷笑して、立ち上がった。


「そういう時のためにその方がいるのではないか」


「わ、私が?」


「一太よ、これから言うことをわしの遺言と思って聞いてほしい」


「……は、はぁ」


 勘弁してほしい……。


「上様(徳川家茂)は若くて何も分かっていないお方だと、多くの者が口にしている。しかし、わしの目から見て英傑の気風がある方だと見ている」


「はい……」


 これは実際そうだ。


 徳川家茂は若くして亡くなったため、有能も無能もないという話も多いが、残された逸話を見る限り有能だったらしい。家定とは比較にならないし、おそらく15代将軍慶喜よりも有能だろう。


 慶喜というと、期待されたのに逃げてしまって失望された話がある。その話を思い出すと、「逃げるわけにはいかない」という井伊直弼の発言も説得力が出て来るのかもしれない。


 だから殺される事実を認めるつもりにはならないのだけど。


「一太、おまえが上様を輔弼ほひつしてほしい。下の者は老中だろうと、大老だろうと気にしなくていい。ただ、上様のことだけを考えていてほしい」


「……」


 ひょっとすると、直弼は将軍家茂が早世することを勘づいているのだろうか。


「そうであれば後事に憂いは無い。開国の道筋は今から変わることはないだろう、わしがやり残したこともない。多くの者を殺すのも疲れるのじゃ」


「大老様……」


「上様を頼むぞ、一太」


「ははっ」


 俺は深々と頭を下げた。



 年が明けても、江戸城では水戸徳川家を叩き潰すべく、京の天皇と交渉を続けていた。


 最初は強気だった天皇も次第に音をあげるようになってきたという。大老井伊直弼は何を言ってもびくともしない。妥協しない限り、朝廷も損をする。そんな苛立ちや弱音が返答の中に垣間見えるようになっていた。



 そんな中で、その日が来た。



 俺は日付を知っていたが、毎日忙しくて一瞬、三月三日のことを忘れていた。


 思い出したのは朝から降る大降りの雪である。


「しまった!」


 完全に忘れそうになっていたが、思い出したところで何かができるわけではない。俺は沖田総司のような凄腕の剣士ではない。現場にかけつけて何ができるわけでもない。


 それに、事件については他ならぬ大老・井伊直弼が覚悟していたことである。


 今更自分が行って何になるのか。



 昼を回ろうかという頃、御用部屋の方に激しい足音が聞こえてきた。


「一太はおるか!?」


 聞き覚えのない若者の声である。


「山口一太は私ですが……って、う、上様!?」


 遠目でしか見たことのない徳川家茂の姿があった。


 この年15歳、満で言うなら13歳。中学一年だ。


「一太よ、大老がやられた!」


「……はい」


 どう反応していいのか分からなかった。驚くべきだったのだろうか。


 家茂は「なるほど」と頷いた。何を頷いたのか、最初は分からなかったが。


「大老から『自分に何かがあった時は、一太を側に置くよう』と言われていた。余はおまえのことをよくは知らぬが、今の動じない態度を見るに相当な胆力と見た。付き従ってくれるな?」


「もちろんでございます」


「……さしあたっては大老を罷免せねばならぬ。手はずを整えたいので井伊家に走ってくれ」


「承知いたしました!」


 この発想がすぐに出てきたのは凄いと思った。



 大老が殺されたということは幕府の沽券こけんにかかわる。決して認めてはならない。


 そうは言っても殺された者が出てくるわけはない。従って、殺されたとは言えなくてもいずれ死んだことにしなくてはならない。


「本日、江戸城に赴く途中、急な発病があり出仕できません。しばらく静養しなければならず、つきましては、大老の役割を免じていただきたく存じます」


 井伊家上屋敷から直弼の名義で解任願いが出された。


 それを将軍・家茂が受取り、「大老の重責たるや大変なものだったのだろう。余人はおらぬが、たっての願いとあり、大老の役を解く」と宣言した。


 茶番ではある。だが、茶番をしなければならない。



 大老・井伊直弼が殺されたのは三月三日である。


 しかし、実際に死んだのは三月二十八日、ほぼ一か月後のことである。



 この考えがすぐに出てきた中学一年生、只者ではない。

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