第5話 一太、現状を振り返り、変の回避を目指す

 俺、山口一太はかつて2022年に生きていた自分のことを思い出した。


 最後に記憶していたのは、燐が道路に出たところに猛スピードで突っ込んでくる乗用車の姿……


 その後、俺は別の人物として生きていて、今、もう一人の自分の記憶を取り戻した。


 幕末の時代、激動の時代についての記憶を。



 そのうえで、改めて考える。



 松陰先生は安政の大獄に巻き込まれて斬刑に処された。


 彼が、アメリカやイギリスに行っても歴史は変わらなかったことになる。


 これをどう考えるべきなのであろうか。


 歴史というものは思ったほど簡単には大きな流れが変わらないのか……


 あるいは、燐が絶妙なやり方で歴史そのものを変えない形にとどめたのか……



 松陰先生は海外を見たから、単純な攘夷論者ではなくなっていたはずだ。


 ただ、海外を知ったから、倒幕という部分を強く意識したのではないかとも思える。このまま幕府に任せていては、日本はますます海外から遅れてしまう、と。


 だから、最終的に致命傷となった老中・間部の要撃策ようげきさく実行については歴史が変わることがなかった。で、薄情なことに松陰先生の門下生は、老中襲撃という計画については危険過ぎるということでことごとくが反対した。


 この部分は門弟達の人間性によるものだから、史実と変わるところはない。臆病者が勇敢になるということはないだろう。


 しかし。


「こいつらを行動させなければならない!」


 松陰先生にはこの意識が強かったに違いない。これが死の間際に語っていた「このまま自分が死ねば、松陰門下は恥となる」という言葉に繋がるのだろう。


 桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らを行動させるには自分が死ぬしかない、と。



 ここまで考えると、歴史の変更があったかもしれないが、それが具体的な結果の変更を及ぼすまでには至らなかったことになる。


 ある意味、燐は絶妙のタイミングで松陰先生を帰したとも言っていいのかもしれない。


 この後、弟子達がどの方向に進むのか。歴史通り攘夷論実行へと進むのか、変わった形で進むのか、それは今後経過観察が必要になりそうだ。



 さて。


 松陰先生が死んでしまった以上、さしあたって尊王攘夷派に対して何かをしなければならない、ということはない。


 さしあたりの問題は大老・井伊直弼である。


 このまま放置しておけば、直弼は来年三月に桜田門外で斬られることになる。


 松陰先生ですら、「大老も死ぬであろう」と予想しているくらいだ。もはやその空気に満ち満ちていると言っていいだろう。


 俺はどうすべきか。


 井伊直弼は嫌われ者としての印象が強いが、個人的には色々目をかけてくれた人でもある。松陰先生の処刑についても、最大限自分に配慮してくれたのも事実だ。


 見捨てるのは忍びない。



 確かに松陰先生や大老本人も言う通り、幕府の先頭を切って走る存在ではある。井伊直弼が逃げたり曲げたりすれば、幕府や日本が更に酷いことになりうる、という見方はある。



 しかし、井伊直弼が暗殺された結果、幕府が良くなったかというとそんなことはない。


 史実では安政の大獄で弾圧された側が報復措置ほうふくそちに乗り出して、色々とひっくり返すことになる。これによってかなり無駄な時間を費やすことになり、幕府が更に後手に回る遠因ともなる。


 一言で言えば、不毛な時間が過ぎることとなるわけだ。


 幕府と朝廷、どちらに勝ってほしいというのはないが、やはり、桜田門外の変は回避できるものならしてほしい。



「大老様」


 俺は年末のある日、井伊直弼の御用部屋に出向いた。


 この頃、大獄の処分は大方済んでいた。


 残りは水戸徳川家に対して出された勅許の返納命令である。


 これも順調に進んでいたが、水戸徳川家にとっては、散々処分された挙句天皇からの密勅まで取り上げられては立つ瀬がない。だから、何かしらの過激な行動に出るだろうことは未来を知らない者でも予想できることである。


「どうかしたか?」


「世情が不安定になっておりまして、何が起こるか分かりませぬ。今後、供の者を増やし、また、不測の事態に備えることもしておいた方がよろしいのではないかと」


 直弼は「ほう」と興味深そうな顔をした。


「不測の事態というのはどのようなことだ?」


「はっ、例えば雨や雪が降る時に、さやに袋を被せたりすることを避けていただければと」


 桜田門外の変の決行は、折しも降った雪によって容易になされたという。雪で鞘が湿るのを嫌がって、袋などを被せた結果、いざ襲撃者が来た時にすぐに刀を抜けず、一方的に攻撃を受けることとなってしまった、というのだ。


 江戸市街地での襲撃などありえない、という油断があったのだろうが、攻撃を受けた際にあたふたとしていたというのはお粗末なことこの上ない。


「なるほどのう。確かに雪や雨が降れば、刀に袋をかぶせるか……」


 直弼は頷いて、ニッと笑った。


「その方、刀や弓は不得手で、剣術も弓術もほとんど知らぬというのに、雪の際には鞘に袋をかぶせると言ったことだけは知っておるのか。まるで実際に雪の日に襲撃がうまく行った様子を見てきたようだのう」


「うっ……」


 これはまずい。


 直弼のにやにやした表情を見るに、俺の意図を見抜いたようだ。

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