第4話 一太、松陰の死の先に覚醒する

 どのくらい意識を失っていたか……。


 気が付いた私が最初に見たのは、井伊家上屋敷の天井であった。


「ようやく気付いたか」


 大老の声が聞こえた。振り向くと、隣の部屋で書物を読んでいる。


「全く、いきなり倒れたと言うから驚いたぞ」


「も、申し訳ございません。あっ」


 謝罪をしたところで、意識を失うまでの顛末てんまつを思い出す。


「大老様、松陰先生のことは……」


 私の言葉に、大老はこれ以上ない程不愉快そうな顔をする。


「ああまで言われると、死をくれてやるしかない」


 当然といえば当然の宣告。


 しかし、私は次の瞬間には大老の前で平伏していた。


「お願いでございます! どうか一度だけ私に説得の機会をください!」


「説得だと……? それは無理だ」


 にべもない言葉を返されるが、私も引き下がるわけにはいかない。


 松陰先生を信じてアメリカまで行き、イギリスまで行き、それでいて今、ここで見捨てるとあれば、何のために生きてきたのか。


「そこをどうか曲げていただきたく……!」



 およそ半刻。私はひたすら懇願しつづけた。


 大老が溜息をついた。


「……是非もない。おまえのこれまでの働きに報いて、一度だけ説得の機会をやろう。吉田寅次郎が先刻までの発言を取り消し、雲浜の件について積極的に語るというのであれば、赦そう」


「あ、ありがとうございます!」


「ただし、そんなには待てん。明日の今の刻までに説得せよ」


「は、ははっ……!」


 私は再度頭をこすりつけると、すぐに立ち上がる。


「これを持っていき、牢獄の者に渡せ」


 書状であった。中を見ると、「今日と明日の間、吉田寅次郎と面会させよ」と書かれてある。


 私はそれを持って小伝馬町の獄へと走った。



 一刻後、私は小伝馬町の牢獄で、松陰先生と向かい合っていた。


 特に変わる様子はない。気のせいか、白洲で話をしていた時よりもふっくらしたようにも見える。


「久しいな。一太。気づいておったぞ」


「お久しぶりです、松陰先生。何故、あのような……」


「うん? 老中暗殺計画のことか?」


「はい……」


 どうしても腑に落ちない。何故、わざわざ自分の不利になるようなことを率先して語ったのか。


 しかし、松陰先生はさばさばした様子であった。


「……イギリスから日本に戻って一年半ほど、萩で多くの者に教えた」


「はい」


「それなりに目ぼしい者もいるが、上辺うわべだけだ。真に尊王の何たるか、攘夷や開国の何たるかを理解している者は一人もおらぬ。口先だけではいくらでも言うが覚悟が足りぬ」


「……」


「どうすれば彼らに覚悟を持たせることができるか、考えた。彼らは皆、手前の門下にいた者達だ。ならば手前が死刑となれば、どうなる?」


「まさか!?」


 唖然となった。



 松陰先生が死刑となれば、その門下にいたという経歴は恥となる。


 それを恥としないためには?


 松陰は正しく、自分達はその後継者であるのだ、という行動をするしかない。


 つまり、松陰が望むような行動をするしかなくなる。


 行動あるのみ。


 松陰先生の真骨頂と言えることを、自らの死をもって示そうとしているというのか。


「それに手前の大志たいしに価値があるということを示すためには、手前が死ななければならない。先頭に立つ者が逃げだすような大志に、誰が価値を認めるのか?」


「それは……」


「一太よ。手前の死にざまを見よ。そして大老・井伊直弼の生き様を見よ。共に多くの物を背負い、多くの者を引っ張っているのだ。先頭に立つものが怖れをなして逃げるなどということはあってはならない。手前が、大老が逃げたらどうなる? この日本はどうなるというのだ?」


「松陰先生と、大老様が……」


「そうだ。手前や彼らのようなものが踏み台となって、次の者が進んでいくのだ。だから、手前も彼も決して後ろを向いてはならない。前を向いて死んでいかなければならないのだ」


「つまり、松陰先生だけではなく、私も続けということですか……」


「お前は違う、一太」


 松陰先生がはっきりと否定した。


「おまえや燐介のような先を見通せる者は、高台から皆を導く必要がある。おまえに求められるのは、手前とは異なる役目だ」


「燐介はそうかもしれません。しかし、私は……」


「一太よ、この吉田松陰がそう認めたのだ。おまえは『違う』と言って、手前に恥をかかせるつもりか?」


 松陰先生はそう言って微笑んだ。


 そうまで言われれば、私としても受け入れるしかない。


「行け、一太。大老はおまえのことを理解しているのだろうが、ここに長居していると後々面倒となるかもしれんぞ」


「は、はい」


「達者でな、一太」


 松陰先生の言葉に、私は体が折れんばかりに頭を下げた。



 それからの日々がどのくらいの長さだったか。


 何が起きていたのか、私はほとんど覚えていない。



 無味乾燥な砂を噛むような日々の先に、その日が来た。


 十月二十七日の夕方。



 小伝馬町の役人が井伊家上屋敷に、私を訪ねてきた。


 彼が取り出したものを見て、愕然となった。


 束のようにまとめた髪。それが何を示すのか分からないほど、愚か者ではない。


「吉田寅次郎は、これを山口様に渡してほしいと……」


 遺髪と、それを包んでいた紙を広げた。


 そこに辞世の句が書かれてあった。



『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂』



「う、うぅ……、うわぁぁぁぁっ!」


 その場に突っ伏し、ひたすらに泣いた。


「燐よ! 俺は、俺はどうすれば……。えっ?」


 思わず口をついて出た言葉に思わずとどまった。


 燐?


 何故、俺は燐介をそのように呼んだ?


 次の瞬間、頭の中にあった雲が一気に晴れ渡ったかのように、様々なものが頭を走る。


 燐介ではなく、宮地燐。


 俺は、山口一太ではなく、山口一……。



 そうだ、俺は、これからこの日本で起きることをほとんど理解している……。

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