6章・安政の大獄(山口視点)

第1話 一太、大老井伊直弼の近侍となる

 安政五年1858年


 その年初を、私は江戸・井伊家上屋敷かみやしきで迎えることになった。


 前年、私は江戸と下田を何度も往復する羽目となった。ただ、その甲斐あって、大使タウンゼント・ハリスの江戸出府しゅっぷ、更には大統領の国書贈呈という役割を果たすことができた。


 大役を果たした私は御影に帰ろうと思ったのだが、井伊直弼に止められた。


「開国までの交渉にはまだまだ難事が山積みだ。もうしばらくわしとハリスの間に立ってくれい」


 譜代筆頭にして、開国派の領袖と言える井伊直弼にそこまで言われて、嫌とは言えない。


 もっとも、やることは依然として江戸と下田の行き来の繰り返しだが。



 しばらくの間、私の周辺には大きな変化はない。


 とはいえ、周囲の雰囲気は目に見えて殺伐としてきている。


 開国の是非、次の将軍の問題、安政年間に立て続けに起こった大地震は一段落したが、その復旧が完全に終わったわけでもない。


 難題が山積みであった。


「どうなるんだろうな……」


 ある日、江戸の街を闊歩する殺気立った浪士達に視線を向け、近藤勇が肩をすくめる。


「まあ、あいつらのおかげで俺達に関しては左うちわなんだが」


 そう言って近藤は苦笑した。


 江戸の治安悪化は試衛館にとっては有難いことであった。私の警護を皮切りにして、警護役を任される機会が増えたからだ。当然、護衛には礼金がつくのであり、案件が増えれば増えるほど試衛館は潤うこととなる。


 その影響が近藤の名前にもある。今まで本家に遠慮して嶋崎姓を名乗っていたが、道場の盛況で面目が立つようになり、新年から近藤姓を名乗るようになった。


 盛況する反面、大忙しである。


 近藤・永倉という二大看板はもちろん、山南敬助さんなん けいすけ井上源三郎いのうえ げんざぶろう原田左之助はらだ さのすけといった試衛館門弟に加え、日程が合えば土方歳三や岡田以蔵も警護役として近場を旅している。



 浪士達はジロジロとこちらを見ているが、さすがに近藤には勝てないと踏んでいるのだろう。舌打ちをして去っていった。


「開国、攘夷、どちらでもいいんだ。さっさと決めればな、決まらないから無駄に金がかかる。本来は誰かを助けるための金が、つまらないことに消えていく。だから、金が回ってこない若い連中が不満を抱いてああやって闊歩かっぽする。その護衛で更に金がかかり、ますます必要なところに金がいかなくなる。悪循環あくじゅんかんってやつだな」


 隣を歩く土方がつぶやいた。商家で長いこと奉公しているせいか考え方が合理的だ。


「おいおい、歳。開国でもいいなんて大声で言ったら、あいつらが仲間を連れて一斉に斬りかかってくるぞ」


 近藤が笑う。


「でも、俺も昔は漠然ばくぜんと外国なんて冗談じゃないと思っていたが、総司がアメリカに行ったからか開国でも構わんのではないかと思うようにはなったな」


 そのうえで、唐突にあの人の名前を出す。


「吉田先生はもう江戸には来ないのかねえ?」


「分かりませんね。しばらくは長州で後進の指導に当たると言っていました」


 それがアメリカに行く際の燐介との約束であったからだ。


 しかし、松陰先生にしてもまだ若い。これからどんどん表舞台で活躍すべきだと思うのだが、何故に燐介は先生に「長州の少年を教えろ」と言ったのだろう?



 四月半ば、私は井伊直弼に呼び出されて、井伊家上屋敷へと向かった。


 小部屋に直弼が座っていた。私の姿を認めると、「そこに座れ」と手前の座布団を勧めてくる。


みかど条約締結じょうやくていけつのための勅許ちょっきょを貰いに行った堀田が失敗したらしい」


「……やはり、そうなりましたか」


 江戸では、新たなる条約締結やむなしという機運に達していた。


 しかし、幕府だけで決めてしまうことには抵抗があった。やはり天皇のお墨付きも欲しいということになったようで、京に老中堀田正睦ほりた まさよしを派遣していたのである。


 それが叶わなかったということだ。


「一太、わしは大老となる」


「大老でございますか?」


「うむ。今の情勢はこれまでのようなのんびりとした動きでは変えられまい。蛮勇と謗られようとも、力ずくで変える覚悟が必要だ。そのためにもわしが大老となり、幕政を強引に主導する」


「ははっ」


 土方の言葉が思い出された。「どっちでもいい。どっちかに決めないと無駄なことを続けて金がなくなり、みんな貧乏になっていく」という言葉が。


「そのためにも一太、わしの助けとなってくれい」


「わ、私が、でございますか?」


 これは心底驚きであった。


 自分は井伊家とは何も関わり合いがない。アメリカとイギリスに行ったということは評価されているのだろうが、ただ、それだけである。燐介のような閃きはないし、総司のような強さもなく、松陰先生のような才覚もない。


「そうだ。お主には何というか、神懸かったところがある。この前、庭先で言っていただろう? 『徳川家は鎖国を実施する際には朝廷の許可など求めたわけでもないのに、今回、天皇の勅許を求めようとしている。それは幕府にとって権威の失墜を自ら明らかにするようなものではないのか』と」


「わ、私がそのようなことを!?」


 これまた仰天する話であった。そんなことを口走っていたのだろうか?


 ただ、過去にも何度か、自分とは思えない発言をしたことはある。それが出てしまったのであろうか。


 それにしても、幕府のやり方にケチをつけるような物言いをよりにもよって、井伊直弼の前でしてしまうとは。即刻打ち首になっても不思議はない。


「褒められた言葉ではないが、確かにその通りではあると思った。今、誰かが覚悟を決めなければならない。そのためにはわしが大老になる必要がある」


「……左様でございましたか」


「お主は公の場にいるとまずい。変な事を口走る危険性があるからな。だから、わしの近侍となってもらいたい。もちろん、タウンゼント・ハリスや道場に出入りすることは今まで通りにやってもらって構わない」


「し、承知いたしました」


 私には否も応もなかった。


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