第2話 直弼、諸問題を片付け大獄が始まる

 大老となった井伊直弼が江戸城内で奮闘している頃、タウンゼント・ハリスもまた奮闘していた。


 6月、私は下田へと出向き、ハリスの意見を聞くことになる。


 ハリスは非常に興奮していた。三間さんげん(約6.6メートル)離れた私のところまで、彼の唾が飛んでくる。


「二年前に始まった中国での戦争(アロー戦争)が、休戦となった。このままでは、イギリスとフランスの連合軍が日本に来るかもしれん! 奴らが来たら、日本の街を焼き払ってしまうかもしれんぞ! 我々アメリカとの条約を超える更に厳しい条約を要求してくるはずだ! そうなるとお前達も大変だし、私も大統領に会わせる顔がなくなってしまう! イチタよ、何とか将軍を説得してきてくれぬか!?」


 必死の形相だ。



 アメリカもイギリスも回った私には、はっきりと分かる。


 アメリカにはイギリスに正面切ってやりあう力はない。しかも、アメリカ内部が揺れていた。


 だからイギリスが出てくる前に、日本と最初に条約を結んで、存在感を発揮しておきたい。


 もし、ここ日本をイギリスに押さえられてしまうと、イギリス本国と日本に東西を挟まれてしまうことになる。そうなるとハリスの個人的面子は丸つぶれとなるし、アメリカとしても非常に厄介なことになる。


 だから、必死なのは分かる。ただ、それならば多少条件を譲歩しても良さそうに思うのだが、妥協はしていない。そこに説得力の無さを感じないでもない。


 もっとも、妥協の有無は関係ないのかもしれない。


 結局のところは、日本が対等の立場で外国と交渉をすることを認められるかどうかということになるのだから。


「分かりました。一応、大老に申し伝えておきます」


 約束はできなかった。大老をはじめ、幕府の上層部は全員、天皇の許しを得て条約を締結したいと考えている。


 もし、幕府が勝手に締結してしまったならば?


 そうなると尊王攘夷派の諸大名が黙っていない。国を二分した内戦になってもおかしくはない。


 とてつもない危機的状況にあると言っていいだろう。



 私は下田から江戸に戻り、登城した。


「アメリカは清国にいるイギリス軍とフランス軍が、日本に来てアメリカに先んじることを恐れています」


 大老に報告する。大老は火鉢をいじり、しばらく思案に暮れていた。


「イギリスとフランスと、アメリカが争うということはないか?」


「ありません。イギリスは当代最強の国でございますし、フランスもその英国と肩を並べてございます」


「……捨て置くとどうなる?」


「イギリス軍とフランス軍は程なく、清国の大宮殿である円明園えんめいえんを跡形もなく破壊してしまうでしょう……」


 まただ。


 また、自分の考えもしない言葉が口を突いた。


 大老も唖然とした様子で私を見ている。


 しばらくの沈黙。


 やがて、大老が大きく息を吐いた。


「この江戸城や、京の大内裏だいだいりが破壊されるかもしれん、ということか……」


「……」


 私には答えることができない。自分の言葉に茫然としていたのが半分、イギリスとフランスが本気なら、そうなることもありえるだろうというのが残りの半分だった。


是非に及ばずぜひにおよばず、か」


 大老はそうつぶやいて、「下がって良いぞ」とばかりに手をひらひらとされた。



 翌日、再度登城の命令があったので、御用部屋に出向いた。


 憔悴しきった様子の大老がそこにいた。


 目の下の大きな隈を見るに、昨晩は一睡もしていなかったのかもしれない。


「……一太、昨日、井上と岩瀬をハリスの下に行かせた。二人は調印してくるだろう」


「ということは、勅許なしに……?」


 大老は小さく頷いた。


「数日もしたら、二人が条約原本を持ってくるだろう。一太、よく見ておくといい。わしの死刑宣告書になるだろうからな」


 そう言って自嘲気味に笑った。


 返事が出来ない。


 大老自身も分かっているのだ。


 勅許抜きで条約を締結したら、もはや後戻りはできない。ここからは尊王攘夷派を徹底的に排除していき、内戦の芽を少しでも小さくしていくしかない。


 しかし、そうなるとますます大老自身を狙う敵は増える。


 とても終わりを全うすることはないだろう、と。



 その後、大老は、幕府に「勅許抜きに条約が締結された責任を取って、大老を辞職したい」と申し出た。


 もちろん、慰留される。


 幕閣にしてみると、今や幕政運営は火の車である。辞めたいというのは「逃げたい」というのと同義である。「冗談じゃない。最後まで責任を取れ」というのが本音だ。


 大老ももちろんそのつもりだ。


 幕閣に大老継続を認めさせることで自分のやりたいことをできる環境を整えたのだ。「辞職させなかった以上、最後までついて来い」というわけだ。



 勅許なしに条約締結をしたことが知れ渡ると、すぐに尊王攘夷派の徳川斉昭とくがわ なりあき松平慶永まつだいら よしながらが江戸城に押しかけてきた。


 これはあまりにも不注意な行動と言えよう。彼らとすると、今までの政争の一端として責任追及をするつもりだったのかもしれない。しかし、こちらはもはや対決意思を完全に固めている。隙を見せたら負けなのだ。


 大老は、「勝手に江戸城に登城してくるなど言語道断」と逆に彼らを処罰する旨を宣言した。そこから一気に次期将軍を紀州の家茂と定め、そのうえで斉昭、慶永らに謹慎を申しつけて表舞台から排除した。


 更に都合のいいことに、すぐに将軍家定が病死したので家茂が将軍となる。



 条約問題じょうやくもんだい将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだい、幕府内の政争、全てが一月で片付いた。



 大老は勝利した。


 だが、まだ勝利としては不十分だ。


 内戦の芽を摘むよう、徹底的に尊王攘夷派を叩く必要がある。



 大獄たいごくが始まった。

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