第9話 燐介、テュイルリー宮殿で伯爵夫人の洗礼を受ける

 教皇ピウス9世とコロッセオを回った翌日、俺はローマを出た。


 その日のうちにミラノに戻ると、マクシミリアンもエリーザベトも何事もなかったかのように迎えてくれた。怪しいと思うところもあるのだろうが、そこはそれ。大人の配慮と言うものなのだろう。


 ミラノで二日ほど歓待され、スカラ座でオペラも堪能して、俺はフランスへと向かうことにした。フランスでナポレオン3世と馬の話をして、それからオランダに行くというのがヨーロッパでの最後のスケジュールだ。


 馬車で揺られて、パリに向かう。



 フランス皇帝ナポレオン3世は、バーティーと非常に仲がいい。


 実際、バーティーからの手紙にも「困ったことがあれば、俺かフランスの叔父さんを頼れ」と書いてきている。


 だから、フランスではそれほど困らずに活動できるのではないだろうか。


 その予想は半分正解だが、半分外れだった。


 俺はナポレオン3世という人物のことをよく理解していなかったのである。



 馬車で北に向かい、パリへと入った。


 テュイルリー宮殿に赴き、門衛にバーティーの招待状を見せると中に通される。


 しかし、どこの宮殿に行っても思うのだが、これだけ多くの部屋があって全部使っているのかね。もちろん、令和の日本の官公庁や大企業もやたらと部屋があって、それぞれなんちゃら企画室とか部門が割り当てられてはいるのだが。


 俺が案内されたのは、何やらやたらと派手な絨毯じゅうたんとか絵が飾られている部屋だった。飾られている絵も、裸の女性が描かれているものばかりで、淫猥いんわいな雰囲気がある。


「お待たせしたわね」


 出てきた女もまた、肩を完全に露出させたイケイケっぽい姉さんだった。歳は俺と同じくらい……と言っても、転生前の俺だけどね。


 つまり、二十歳くらいだろう。


「あんたは誰?」


「イタリア風に言うなら、私はカスティリオーネ伯爵夫人。フランス流ならラ・カスティリオーヌですわ」


 近づいてくると香水の匂いが強い。正直、せ返りそうな匂いだ。


「皇帝陛下は所用があってしばらくパリを留守にしております。その間、私がギャルソン・ジャポネの面倒を見るよう言われております」


 ギャルソン・ジャポネ、つまり『日本の少年』ということか。


「はあ、どうも……」


「早速ですが、今宵こよいの相手を選んでいただきますわ」


「はい?」


 カスティリオーネ伯爵夫人はいきなりアルバムのようなものを取り出し、開いた。


 そこには伯爵夫人と同じような服装の女性が沢山並んでいる。



 いや、いや、ちょっと待てよ!


 ここはフランス皇帝の居所テュイルリー宮殿だろ?


 何で「今晩は誰にしますか?」って風俗店みたいなことを言われないといけないんだよ?


 文句を言いかけてハッと気づく。


 ナポレオン3世はバーティーことエドワード7世の師匠みたいなものである。


 弟子のバーティーは英国きっての女好きだ。


 その師匠も、言わずもがなということなのだろう。


 やれやれな話だ。



「あ~、お、俺はさ、日本に婚約者がいるから」


 こういう時、一応千葉佐那と婚約っぽい約束をしたことは有意義だなあと思う。そろそろ坂本龍馬との婚約話も出ているはずで、向こうが覚えているのかは知らんけれど。


 当然カスティリオーネ伯爵夫人はそのくらいでは引き下がらない。


「愛人の一人も囲えないなんて、男がすたりますわ」


 それダメな男が言うセリフだよ。女性が言ったらダメでしょ。


 夫人は別のアルバムを開いた。そこに気の強そうな美人がいる。


「例えばこの女、エリザ・リンチは二年前にパラグアイ大統領後継者のロペス・ソラーノに見初められてアスンシオンに渡りましたわ」


 えぇーっ?


 パラグアイ大統領の後継者がパリで女の子引っ掛けていったのか……。


 というか、ロペス・ソラーノってブラジルとアルゼンチンに喧嘩を売るという、太平洋戦争の日本が可愛く見えるくらいのアホなことをして国民半分くらい死なせた人じゃなかったっけ。


「さあ、誰でもいいのよ? 好きな子を選んでちょうだい。あ、でも、私はダメよ。皇帝陛下のものだから」


 選ばねぇよ。


 というか、この女以外に皇后が別にいなかったっけ?


 ナポレオン3世も本当に困った奴だなぁ……。



 その後、一時間くらい執拗しつように迫られたが、俺は頑として受け付けず跳ねのけた。


 最終的には伯爵夫人は「貴方、ひょっとしてできないの……?」と失礼千万なことを言っていたが、とにかく早く帰りたいから否定もせずに「そういうことでいいから」と言い続けて退室した。


 部屋を出ると、別の文官……どうやらイギリス大使館関係者が、パリでの宿を用意してくれて、そこに泊まらせてもらう。


 ベッドに横になり、真っ暗な天井を見上げた。


 少し反省する。


 いくら何でも来るなり女なんていうのは無茶苦茶ではあるのだが、ナポレオン3世からしてみれば良かれと思ってやってくれたことなのだろう。


 それを無碍むげに断ったということは、ひょっとしたら皇帝を不機嫌にさせてしまうのではないだろうか。不安になる。



 結論として、俺の不安は正しかった。


 ただし、結果的には大正解の選択肢であったことが、翌日に明らかになる。

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