第7話 燐介、教皇ピウス9世と謁見する

 ローマ市街地のほぼ中心にあるクイリナーレ宮殿もまた勇壮ゆうそうな建物だ。丘の上からの見晴らしもいい。


 うん、以上。


 ……。


 俺、ヨーロッパに来てからというもの、宮殿を見過ぎているなぁ。そのうち「こんなものは当たり前だ」くらいの価値観になってしまいそうだ。


 中にはフレスコ画が多い。


「あれが、250年前の日本からの使節を描いたものですね」


「ほ~」


 支倉常長やそれに帯同した宣教師ルイス・ソテロらを描いたものらしい。


 宮殿は全部似たようなもの感覚になっていた俺だが、日本人の絵があるというのはやはり特別だ。何となく親近感が湧いてくるな。


 とはいえ、他はロンドンやトリノの宮殿と似たようなものだ。何かを感じるようなことはない。


 変な話、最初に入ったのがバッキンガム宮殿だったので特大の免疫ができてしまった。


 案内に従ってサクサク進んでいくと一際大きな扉の前に立たされた。


「この奥に聖下がおられます」


 説明を受ける。


 これまでヴィクトリア女王にも会っているから、教皇といえども恐れるに足らず、いや、やはりちょっと緊張するな。



 扉が開いて、中に入った。


 部屋は広いが、中は思ったよりがらんとしている。その一番奥にある大きな椅子に一際豪華な法衣をまとった男が座っていた。顔は……ちょっと一癖ありそうだな。


「ローマ教皇ピウス9世聖下であられる」


 隣にいるお付の発言に、修道僧が頭を下げ、俺も頭を下げる。


「遠く日本からようこそ」


 顔はちょっと一癖ある雰囲気だが、声は明るい。何だかうれしそうだな。


「ここローマに、日本から人が来るのは実に242年ぶりのことであり、実に素晴らしいことです。これこそまさに神の奇跡であり、神がこの機に日本という場所を思い出せと、私に教えてくれたのだと考えています」


 ここまでは、いかにもお偉いさんの形式的な挨拶である。


 ただ、その次の言葉は、この教皇が日本通であることを感じさせるものだった。


「そこで私は色々考えました。ツネナガ・ハセクラが来る18年前、つまり260年前には26人もの殉教者が日本で出たと聞いております。私達は今、彼らのことを思い出すべきです」


「は、はぁ……」


 260年前ということは西暦だと1597年、豊臣秀吉の最晩年か。


 とはいえ、キリシタンの殉教者絡みは島原の乱くらいしか分からないから、いきなりこんなことを言われても答えようがない。


 ただ、そこは付き添いの修道僧が空気を読んで、何かラテン語で話をしている。恐らく「素晴らしいことです。私も日本人として誇らしく思います」とかそんなことだろう。


 ただ、随分長々と話をしているのはいかがなものだろう。俺は「は、はぁ……」としか言っていないのに通訳は三分くらい話しているぞ。


 何かもうちょっと話をした方がいいな。


「しかし、250年前の支倉さんの時には来るだけで年単位がかかったと思いますけれど、今は科学も発展してすぐに行けるようになって便利ですよね~、アハハ」


 通訳役の修道僧が露骨に嫌そうな顔をした。


 しばらく思案してから、ピウス9世に話をすると、教皇もにこやかに笑っている。


 今の間は何だったんだろう?


 俺、何かまずいことを言ったのかな?


「聖下は、『神の導きがあったから、ここに無事に来ることができたのだ』と仰せです」


「あ、そうですね。主に感謝しています」


 そうか。教皇に対して、旅の無事を語る際には、神のご加護を語っておけということね。


 俺は一つ賢くなった。


 今後、今の人生でも元の人生でもローマ教皇と会うことがあるのかどうか定かではないが。


 更に教皇は何かを言っている。


「ローマでの旅に神のご加護があることを祈っている、と仰せです」


「ありがとうございます」


 最後にやることは分かっている。教皇に跪いて、手の甲にキスをするやつだな。




 面会が無事に終わり、部屋を出ると「ふ~っ」と大きな息が漏れた。


「お疲れ様でした」


「すみませんね。フォローしてもらったみたいで」


 俺は通訳してくれた修道僧に礼を言った。


「いえいえ、ただ、科学の話をされた時には冷や汗が出ました」


「……科学はまずいんですか?」


 何の気なく尋ねると、修道僧が暗い顔をする。


「そうなんですよ。聖下は、教皇になられた時には自由を大切にし、使命感に燃えていたのですが、9年前の革命騒動から一気に反動的になってしまわれました。今では、聖書に書かれてあることが全てで、科学など聖書にないことは全て偽りである、という考えになられています」


「マジ!?」


 それはかなりやばいな。この、科学主義全盛と言っていい時代に。


 でもまあ、令和の現代にも科学のことを信じない面々もいるから、仕方ないことなのかね。


「更に人のいないところでは、教皇の言うことは常に正しいという考えも……」


「……ひぇぇ」


 それで思い出した。


 19世紀くらいに時代に逆行してこんなことを言い出した教皇がいたということを。



 1.ローマ教皇の言うことは常に正しい。

 2.違うと思ったのなら、1をもう一度読むこと。



 教皇無謬説きょうこうむびゅうせつというやつだ。


 この時期、科学に関する実験が行われて、聖書などに書かれてあることは間違っているのではないかというような意見が多くなったことに対して、教皇庁が頑なに拒んだという話があった。


 それがあのピウス9世だったというわけか。


 中々困った人だな。



 だが、往々にして自分が「苦手だ」と思った相手から好かれることというのは結構ある。


 控室で帰る準備をしていると、司祭らしい者がやってきて通訳にボソボソと何かを言った。浮かない顔をして聞いている。


「リンスケ、困ったことになりました」


「どうしたの?」


「聖下が、明日、共にコロッセオを見て回りたいと仰せです」


「えぇーっ?」


 勘弁してくれよ、本当に。




※作者注

 ピウス9世は燐介とは関係なく、1597年に殉教した26人の日本人カトリック信者を列聖しています。

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