5章・欧州大陸周遊記
第1話 燐介、欧州一の美女に振り回される①
1857年の4月。
俺、宮地燐介はフランス……ではなく、北イタリアのヴェネツィアにいた。
中世から近世初期にかけては地中海の覇者だったこともあるヴェネツィアだが、この頃にはすっかり衰えていて、オーストリア帝国の一部となっていた。
そう、オーストリア帝国という言葉でお分かりいただけたかもしれない。
バーティーの奴、俺にフランスに来いと言っておきながら、いざフランスに行くと「北イタリアのヴェネツィアまで行って、俺の私信を渡してほしい」なんて言って手紙を渡してきた。
話が違うと思ったが、イタリアやドイツ、何ならスペインだって一度は行ってみたいと思っていたので、とりあえず行ってみることにした。
で、俺は今、ゴンドラの中でその人と話をしている。
見事なまでの黒い長髪に艶やかな黒い瞳を持ち、簡素ながらも豪華な金地の刺繍が縫い込まれた服を着る美女。何か話す度に扇子を口にあてる上品なご令嬢。
エリーザベト・フォン・エスターライヒ。
オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフの皇后である。
「バーティーから手紙で聞いていたけど、本当に日本なんていう遠い国から来たわけ?」
エリーザベトは1837年生まれの年末生まれであり、現在19歳。俺より4つ半年上だ。
ただ、既に二児の母なのはこの時代ならでは、だろう。
「……はい、まずアメリカに行きまして、それからイギリスに、フランスに渡って、バーティーからイタリアに来いと言われたので来ました」
ちなみに総司とはフランスで別れた。彼は現在フェンシングの練習に明け暮れているはずだ。
バーティーが「東洋の国日本から来た最強のフェンシング剣士だから、贔屓してよ」とナポレオン3世に頼んでいたらしく、結構いい待遇でいるらしい。
「それにしても、何だか他人と思えない顔をしているわよねぇ。ウフフ」
エリーザベトが楽しそうに微笑んでいる。何かよく分からないが、彼女は俺を一目見て気に入ったらしい、最初から話も真面目に聞いてくれるし、好意的な反応を示してくれている。
「髪と目が同じ色だから、ですかね?」
「それもあるし、顔の彫りがハンガリーの人に近いのよね」
なるほど、ハンガリーか……。
東欧の国ハンガリーと北欧の国フィンランドは共にある民族の名前が国名についている。かつてローマ帝国内部で暴れ回ったと言われている民族フン人だ。
このフン人というのは中国北部で暴れていた匈奴などモンゴロイド系ではなかったか、という説もある。
日本人もモンゴロイド系だから、民族的なルーツは同じということになる。
そのハンガリー人のことをエリーザベトは大好きなわけだが、この大好きの理由はある意味バーティーのフランス好きと似通っている。
エリーザベトは皇后であるが、ウィーンの宮廷に帰れば夫フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーが皇太后として取り仕切っている。
このゾフィーとエリーザベトの仲が悪い。物凄く悪い。
だから、エリーザベトはゾフィーが好きなものは嫌っていて、逆にゾフィーが嫌いなものを贔屓にする。ゾフィーはハンガリーやイタリアが好きではないので、エリーザベトはこの二つの国を贔屓しているというわけだ。
結論として、日本人の俺は、エリーザベトの好きなハンガリー人にありがちな風貌をしている。よって、エリーザベトは俺に好意をもっているということになるのだろう。
「競馬が好きなんだって?」
「そうなんですよ。でも、バーティーには敵いませんねぇ」
あいつのような掛け値なしの競馬好きではないから、な。あくまで、競馬も好きだというレベルだ。
「彼は本当に馬が好きよねぇ。私も馬に乗ってみようかなとは思うけれど、時間がなさそうなのよね。お義母様も許してくれないだろうし……」
と言いながら、彼女はようやくバーティーの手紙に目を通す。
「……リンスケは私の友人だから、素敵な女性を見繕ってほしいと思っています。できればオーストリアかイタリア人で探してくれないでしょうか」
「ブーッ!」
俺は飲んでいた水を噴出した。
いや、一瞬で向きをエリーザベトから窓側に移した動きを褒めてほしい。オーストリア皇后に吹きかけていたら、それこそ打ち首もんだ……。
「なるほど。見た感じ、そろそろそういう年頃だものね」
「い、いや、まだ早いですよ」
俺、中身はともかく体は十五歳よ?
古い民法でも、まだ結婚できない年齢よ?
「……バーティーはイギリスとドイツが嫌いでしょ。私はオーストリアが嫌いだから、イタリアかハンガリーで探すことになるわね。任せて、私、ハンガリーの貴族には顔が広いから、合う子探してあげる」
「い、いや、探してもらったとしても……俺はそのうち日本に帰るし」
「ということは、大貴族はまずいわね。領地から動けないから」
真面目にメモをとっているエリーザベト、ちょっとシャレにならないんだが……。
「何? もしかして緊張しているの? そうか! リンスケは貴族の生まれじゃないからそういうのを教わってないのね。じゃあ、今夜、ここで勉強していけばいいんじゃない?」
何だって!?
「そういうのを教えてくれる若い未亡人なんていうのは、どこにでもいるものよ。みんなが普通にやっていることだわ。後で領主に聞いてみましょ」
普通のことみたいに話しているけれど、全然普通じゃないよ!
大変なことになってしまった。
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