第6話 松陰、全米一の知恵者と討論する②

 ともあれ、俺達は船に乗って、ニューヨークからシカゴを目指すことになった。


 基本的にこの時代のアメリカの移動は船だ。五大湖やミシシッピ川やその支流を駆使して移動するというわけだな。


 松陰はリンカーンに勝つ気満々だ。日本では学問で太刀打ちできる相手がいなかったのだから自信過剰気味なのは無理のないことだろう。ただ、アメリカのことをほとんど知らないくせに討論するというのはさすがに無謀過ぎる。


 変な事を言って日本の恥となるのは仕方ないのだが、負けて逆上して斬るというようなことだけは避けなければならない。


 さすがにそんなことはしないだろうって?


 こいつは幕府に対して「俺達、老中暗殺計画していたもんね」とか言うような奴だぞ。思い立ったらすぐ行動、迷いなんか抱いていたら負けという信念の持ち主だ。何をしでかすか知れたものではない。日本人がアメリカの有望な政治家を斬り殺したなんてなったら、国際問題に発展しかねない。


 だから、あらかじめアメリカの制度や奴隷制度について説明をしておく。もちろん、教科書レベルの知識であって、アメリカの考え方に沿ったものかどうかは分からないが。


「ふむ、なるほど。参考になった」


 松陰は、通り一遍の説明を聞いて、納得した態度をしていたけれど、果たして本当に大丈夫なのだろうか。



 船は五大湖に入り、ミシガン湖へと入り、シカゴへと向かう。


 一口でニューヨークからシカゴと言うが、距離にすると千キロ以上ある。東京からだと九州とかソウルまで行ってしまうような距離だ。


 今では世界的な大都市であるシカゴだが、この頃から北アメリカ有数の大都市であり、数年前にイリノイの西方面への鉄道が開通している。これを更にカンザス・ネブラスカまで伸ばそうとしてスティーブン・ダグラスが南部に妥協しようとしたというのは前話も見た通りだ。


 港が見え、そこに向かっていく。


 と、港の桟橋さんばしにやたら背の高い男が立っているのが見えた。その周囲にも多くの人がいるが、彼だけは頭半分くらいは抜けている。


 それだけでも目立つが、俺は彼の顔を知っているから、より目立って見える。


 エイブラハム・リンカーンのお出迎えというわけだ。



 遠目からでも大きいと思ったが、船から降り立ってみると、リンカーンの背の高さはより際立っていた。


 いや、もちろんアメリカ人は日本人より大きいので基本みんなが俺達より大きいのだが、リンカーンは195センチくらいある。松陰が150センチちょっとだから、頭一個どころでない背丈の差があった。


「すげぇ、でけぇ」


 総司も呆気に取られて見上げている。


 ただ大きいだけではない。レスリングも強かったという。見た目は細身だが、細マッチョな体形をしているのかもしれない。


 とはいえ、態度に尊大なところはない。俺達を見ると、片手を前に頭を下げる。


「遠路はるばるようこそ。私がエイブラハム・リンカーンだ」


「小生は日本から来た吉田松陰と申す」


 最年長の松陰が挨拶をすると、ニッコリと笑って返してくる。悪意はないと思うが、これだけの大男に笑われるのも中々不気味な感がある。


「宿舎を用意してある。案内しよう」


 リンカーンは先頭切って案内してくれる。ホテル街のような場所が見えてきた。


 確かリンカーンはイリノイ州中部にあるスプリングフィールドが本拠地だったはずだから、シカゴには家はないはずだ。別荘もないし、案内するのはホテルということになるのだろう。



 案内されたホテルは非常に立派なものであった。


 正直に言うと、前世ではほとんどベッドで寝ていたから、豪華なベッドには懐かしさのあまり涙が出そうになる。


「改めて、アメリカへようこそ。一アメリカ市民として、遠い国からの来訪を歓迎するよ」


 リンカーンはにこやかに答えて、懐から紙を取り出す。


「早速話をさせてもらいたい。我がアメリカ合衆国は、誇らしい国ではあるのだが、残念ながら一つだけ汚点があってね」


「奴隷制度、かな?」


 松陰の問いかけに、リンカーンは「イエス」と指さしてくる。その仕草は、俺の知っているアメリカ大統領ドナルド・トランプやバラク・オバマの自信満々の仕草とも重なるものがある。


「君達にとってもマイナスにならないだろうと思って、草案を作ってみた。差し支えなければ読んでみてくれないかね?」


 リンカーンが俺達の前に広げた紙を見せて、ニコリと笑う。



 なるほど。



 自分の政策理念に沿う、アメリカ人受けのする原稿をあらかじめ作ってきたというわけか。これに俺達がサインをすれば、「アメリカの新しい条約締結国じょうやくていけつこく日本からの来客は、このように奴隷制度に否定的だ」という形でアピールをするのだろう。


 どうしたものだろうか。


 ひとまず、今は松陰が読み終わるのを待つしかない。


「……なるほど。確かに東洋の小国としては、この国が奴隷制度を採用していると自国民が奴隷として使われるのではないかと不安で仕方がなくなるだろう」


 二分も経たずして松陰が返事をした。早い! もう読み終えたのか?


「手前としては、この内容についていささかも反対するところはない」


「そうか。では、下に署名してもらえると助かる。文化が違うかもしれないが、我が国では署名が有効になるのでね」


「あいや、しばらく」


 松陰が右手をあげて、リンカーンを静止する。


「内容については賛成だ。しかし、手前も政見を持つ者として、貴殿の真意に興味がある。その真意に納得がいけば、心から賛同して血判をするつもりだ」


 リンカーンは「ほう」と笑みを浮かべた。


「私の真意を試したいというのだな。いいだろう、応じよう」


 余裕綽綽よやうしゃくしゃくといった表情で応じて来る。


 相手は見た目も、実績も、見上げるような巨人である。年齢だって松陰より20年くらい上だ。


 全ての面で格上だ。しかし、松陰は怯む様子がない。


 やるんだな、本気でやるんだな、松陰……。


 一体、どんな舌戦が繰り広げられるのか。俺はもちろん、総司も一太も固唾を呑んで展開を見守ることになった。

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