プロローグ・近江屋にて・③
下から素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「先生!
先程、龍馬が軍鶏を買いに行かせたという小僧の峰吉が戻ってきたらしい。
「ほたえな(騒ぐな)!」
うおっ。
近江屋事件で龍馬が叫んだと言われる言葉に、俺は一瞬たじろいだ。
だが、当然、刺客は入ってこない。俺が指示を出さない限り、見廻組の面々は動かないはずだ。
時間も既に五ツ半を過ぎているようだ。
史実では、この時間頃に龍馬と中岡、あとは出迎えに来た大男こと
この時間まで無事ということは、暗殺ルートは回避できたはずだ。やれやれ……。
「……しかし、宮地。おまえさんはこんなことを、どこで知ったのじゃ?」
安心しているところで、中岡が尋ねてきた。龍馬も続く。
「そうじゃ、おまえさんは土佐を出て14年間、一体全体どこで何をしていたんじゃ?」
二人して探るような視線を向けてきた。敵意はなくなったが、これはこれで厳しい。
「い、いや、まぁ……」
俺は誤魔化し笑いを浮かべて、袖で額を拭う。
汗がべっとりとついていた。
やはり相当緊張していたらしい。
話しても信用してはもらえないだろう。
激動の19世紀は何も日本だけの話ではない。
アメリカではつい先ごろまで南北戦争が戦われていた。アメリカ史上最も凄惨な戦争だ。
ドイツやフランス、オーストリアも戦っている。
そして、20世紀の一方の雄となる社会主義運動に向けたインターナショナル活動も行われている。
そんなところを回ってきたなんて、言っても信じてもらえまい。
しかも、俺は前面に出ていたわけではない。今、まさに芽吹こうとしているスポーツの発展を目指して活動していたのであるから。
ニューヨークで競馬に携わり、ロンドンでカール・マルクスに野球を説いてきたと言っても、「べるもんとすてーくすとは何じゃ。まるくすとは何者じゃ」となってしまうのがオチだ。
しばらく沈黙。
「先生! 軍鶏が冷めちゃうよ!」
静かになったので、話が終わったと思ったのだろう、峰吉が繰り返し下から呼びかけてきた。
「もうすぐ終わる! しばらく待っておれ!」
龍馬が返答し、その場にどっかりと座った。
「言いたくないようじゃの。まあよいわ。おまえさんの言いたいことは分かった。わしらも追われる身じゃし、従うしかない部分もあるじゃろう。ただ」
「ただ?」
「海援隊と陸援隊のことじゃ。多くの者がこれに賭けておる。海援隊の活動が各方面を刺激するというおまえさんの危惧は分からんでもないが、わしらが解散せいと言ったところで皆が素直に従うとも思えん」
「そうですね、確かに……。ただ、今後は武器や艦船の買い付けを今までのように行うのは無理だと思いますよ」
「それは分かっておる。今はともかく、幕府が倒れて日本が安定すれば、名門の連中が利権を牛耳るということじゃろ?」
「ま、まあ、そんなところです」
と、さも当然のように答えたが、本当のところはどうなるか分からない。
史実では、龍馬と中岡の死後、海援隊も陸援隊も解散という運びになっている。その残務に携わった
では、二人が死ななければ海援隊と陸援隊はどうなっていたか?
分からない。ひょっとしたらうまく行くのかもしれない。
ただ、龍馬も中岡も敵が多い。本人達も自覚しているように薩摩藩も完全な味方ではない。同じことを続けていれば、今回は生き延びてもどこかでつまずく可能性は高い。
せっかく、近江屋で死なずに済んだのだ。できれば、長生きしてほしい。
この二人がいなくても、日本は清やロシアには勝てるようになるのだから。
「岩崎弥太郎らが頑張ってくれるでしょう。私からも頼んでうまく処置しますよ。あと、武器や艦船ではないのですが、個人的にやってもらいたいことはあります」
「おりんぴっくか?」
「いえ、まずは馬です」
「馬?」
「はい。ヨーロッパでは、貴族が馬を楽しんでいます。優れた馬を作って、競わせて」
「農場や戦場で使うというわけか」
「……農場では使いませんね。戦争になれば戦場には出ます」
サラブレッドが戦争に駆り出されるというのは想像しづらいが、実際に戦争となれば別だ。事実、南北戦争には多くのサラブレッドが駆り出されて、死んでいった。
「ただ、本来は戦場ではないところを走らせるのが目的です。一番速い馬を作るために」
「変わっておるのう」
「アメリカでも最近まで戦争があって、多くのサラブレッドが死にました。今、多くの人が復興に向けて励んでいますので、いずれは協力してもらえればと思います」
龍馬の目の色が変わった。
「いずれは……? ということは、わしらはおまえさんにくっついてアメリカに行くことになるのか?」
「大人しくしていただければ、いずれは……」
「おおう、大人しく……、それは厳しいのう」
龍馬が頭を抱える。少し滑稽で笑ってしまった。
「というか、何でおまえさんはそんなにアメリカに詳しいのじゃ?」
中岡の問いかけでまた面倒そうになるが、一瞬で立ち直った龍馬が中岡の口を塞ぐ。
「そんなことはどうでもいいじゃろう! 分かった。わしらは土佐に戻る。おまえさんが海援隊の仲間をきちんと遇するのなら大人しくしていよう。その代わり、アメリカに行かせるようにするという約束は、忘れるんじゃないぞ。忘れたら末代まで祟るからな」
「そんなことはしませんよ」
「ようし、前祝いじゃ! 峰吉、待たせたのう! 早く軍鶏を持ってこい!」
「もうすっかり冷めちゃったよ~」
下から情けない声が聞こえ、ドタドタと階段を上がる音が聞こえてくる。
「構わん! だが、冷めたものだけだとつまらんから、今から追加で買ってこい!」
「えぇ~、もう店が閉まってるよぉ」
峰吉は泣きそうな顔をしたが、軍鶏を置いて、外へと駆け出て行った。
今夜は長い夜になりそうだ。
※これは、幕末の時代に転生した21世紀のスポーツ好きが、激動の19世紀でスポーツ発展に取り組み、ついでに世界平和にも貢献する話である。
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