プロローグ・近江屋にて・②
一瞬、虚を突かれたかのように固まった龍馬と中岡だが、すぐに険しい顔に戻った。
「おりんぴっくとは何じゃ? わしらを
二人の殺気が増し増しになる。
まあ、そうなるだろう。俺が話をはぐらかしたように思われるのは仕方がない。
二人にオリンピックというものを理解してもらわなければいけないが、それは中々難しい。慎重に言葉を選ばねば。
「……
「何……?」
「この二人だけではありません。日本にいる多くの剣士で最強を決める。興味はありませんか?」
「最強の剣士……?」
龍馬の殺気が多少薄れた。地元土佐で剣術を学んでいた中岡に対して、龍馬は江戸の名門・千葉道場で修行していたことがある。剣術に対する視野はその分、広い。
「それを更に広げて、世界中の剣豪の試合を見てみたいと思いませんか? 剣術だけではありません。柔術や弓術、鉄砲術。更には欧州式の相撲(レスリング)。そうしたものの世界一を決める場所。それがオリンピックです」
「ふざけたことを!」
中岡が跳ね上がるように起きて刀を手にしようとするが、龍馬が制して更に問いかけてきた。
「世界には、そんなものがあるのか?」
「あります。正確には、昔、ありました」
歴史上、オリンピックは二つある。かつて古代ギリシアのポリスで開催されていた古代オリンピックと、現在開催されている近代オリンピックだ。
ただし、慶応三年の時点では近代オリンピックはまだ開催されていない。
第一回アテネ大会が開催されたのは1896年。29年後の話だ。
つまり、まだ欧州でもオリンピック復活の機運はない。近代オリンピックの提唱者クーベルタン男爵はまだ四歳の幼児だ。
だから、大きく先を越すことができる状態なのだ。
「ふむう……」
龍馬は顎を手でさすりながら、色々と考えている。
しばらくして口を開いた。
「おまえさんの言うことは確かに面白い。だが、今、日本はこんな状態じゃ。海外の国とは不平等条約を結ばされていて、国内は混乱しておる。まず国内を収めて、それから海外に追いつき、追い越さんといかん。おりんぴっくなるものをする余裕はないのではないか。まずはこの国内を静かにしてから、改めて取り組むべきだと、わしは思う。そうだな、ざっと40、50年経てばできるようになるかもしれん」
鋭い……。
史実では、日本人選手が参加したのは1912年のストックホルム・オリンピックからである。慶応三年から45年後のことだ。
だから、確かに龍馬の指摘は正しい。しかし、ここで引き下がるつもりはないし、ここまで持ち込めば俺には切り札がある。
「では、ヨーロッパやアメリカが不平等条約を結んでいるのは何故だと思います?」
「理由……? 幕府も含めた日本が弱いからか?」
「弱いというのもあるかもしれませんね。ですが、決定的な理由は、彼らは日本のことを野蛮だと思っているからです」
俺は事細かに、説明をした。
西欧諸国やアメリカ……いわゆる列強には憲法を含めた各種法体系が整備されている。つまり、誰だろうと法律を理解すれば、その国で自分達が何をしていいのか、悪いのか、悪いことをした時にどのような処罰がなされるのか、それらが分かるわけだ。
しかし、幕末の日本にはそれがない。
生麦事件に代表されるように、重要人物の往来の邪魔をしたことで切り捨て御免もありえるような世界であるわけだ。誰だって、即座に斬り殺されるかもしれない国と対等な関係を結びたいとは思わないだろう。
だから、明治維新の後、日本は多くの閣僚を欧州に派遣したのだ。憲法とそれに伴う法体系を勉強して、制定して、不平等条約を解消してもらうために。
日本はそれができた。大日本帝国憲法を始めとする法体系を確立させて、不平等条約を撤廃した。
しかし、出来なかった国も多い。
トルコ(オスマン帝国)は憲法を制定したけれども、列強が本当に望んでいたことをやらなかったがために、解消できなかった。
同じことは中国(清)にも言える。
「龍馬さん、オリンピック精神というのは欧州の精神なのです。欧州の精神を我々が唱えることは、ヨーロッパの連中に『日本は対等に付き合える国だ』と思わせることなのです! ですから、オリンピックを目指すことは不平等条約撤廃への近道なのです。そして! ゴヘッ、ゲホッ」
やばい。話している俺が興奮してしまって、咳込んでしまった。
「おぉ、ちょっと落ち着け。ほら、水じゃ」
中岡が俺に水を寄越してくれた。俺は「どうも」と受け取り、飲み干す。
「そして、日本を強くすることは他の者達にもできます。薩摩なら小松(清廉)様、西郷(隆盛)殿、大久保(利通)殿。長州なら桂(小五郎)殿、公家の岩倉(具視)様。しかし、この日本からオリンピックを唱え、その準備ができるのは、龍馬さん、貴方しかいないんです!」
近代化の名前については現時点で思いつく限り挙げてみたが、小松帯刀と桂小五郎はそこまで行くまでに病死してしまうから、適切ではないかもしれない。
まあ、これらはハッタリだ。俺が彼らのことを知っているというだけで効果があるだろう。
幸いにしてハッタリは効いたようだ、龍馬は大きくのけぞってくれて、両手でそれぞれの膝を叩いた。
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