第十一話 絶望の獣

 近づいてくる光が視界を埋めつくし、そして炸裂した。一瞬、音が掻き消えて全てが白に包まれる。その中で秋生は激しく揺さぶられ吹き飛ばされた。

 意味の奔流。光。波。熱。動き。崩れる。裂ける。回る。様々な意味の連なりが光の中で暴れていた。天地も分からぬままに秋生はなす術もなく竜巻のように振り回された。

「……あぁ……」

 気が付くと光は消えていた。一体いつからここにいるのか、秋生は一瞬分からなくなった。少しの間気を失っていたようだと気づき、そして自分の腹から生える物に目を奪われた。

「なに……これ……」

 意識すると同時に熱いような痛みが腹部に走った。それは物干しざおの支柱部分のようだった。それが半ばから折れ、先端が秋生の腹に埋まっていた。じわじわと染み出てくる自分の血液に、秋生は思わず手を引っ込めるほどの熱さを感じた。

「うぇ……」

「ウェル……お前も……」

 ウェルの微かな鳴き声に秋生は視線を向ける。そこにはコンクリート片に圧し潰されかかっているウェルの姿があった。ビルの最上階から屋上に出るための踊り場のような部分、それが根元から割れて横倒しになりウェルの体を潰している。今の秋生にははっきりと見ることはできなかったが、ウェルの体の周りに広がる赤い染みがその傷の深さを思わせた。

 意味にまみれた時、様々な意味が崩れ、千切れ、散らばり、そして再び一つになる。意味汚染と呼ばれる現象だった。

 石が割れ水に溶け、割れたガラスが本の一ページとなり、植木鉢の花は一瞬の光となる。秋生の体には物干しざおの柱以外にも雑多なものが突き刺さっていた。石やガラスの欠片、段ボールの紙片、ペットボトルのキャップ。ただ単にぶつかって傷となっているのではなく、元からあった肉体と置き換わる様にしてその隙間に収まる。秋生の指の爪の一枚は金属片に置き換わり、髪の何本かはワイヤーやストローになっている。

 ウェルの体を押しつぶしているのも意味汚染が原因だった。内部にある膨大な意味を先ほどの光により攪拌され、その隙間に同等のエネルギーを持つ質量の大きなコンクリート片が収まろうとした。それは意味の上ではウェルの肉体であり、皮膚や筋肉と同じ意味を持っていた。

「くそ……なん、で……」

 舌が口の中でこわばるのを秋生は感じた。それも意味汚染による障害だったが、最早冷静に自分の状況を観察する余裕はなかった。

 血は、こうしている間にもとめどなく流れている。血がたくさん流れ出れば死ぬ。具体的な量を秋生は知らなかったが、このままではまずいことは分かっていた。

 だが街の上空では相変わらず十字架の怪謬かいびゅうが暴れている。救助を期待するのは難しそうだった。せっかく怪謬の近くにまで来たのに、結局は何もできずにこのざまだ。秋生はボロボロになった自分とウェルを見て力無く笑った。

 秋生は父の死を思い出した。怪謬の攻撃に巻き込まれ、車で逃げる途中で死んでしまったのだ。亡骸は母の珠代が確認したが、それがどんな状態だったかは聞いていない。しかし重度の意味汚染によりほとんど原形をとどめていなかっただろうと、新聞やニュースの記事には書いてあった。人間であるという意味を奪われ、車の部品や地面とまぜこぜにされて死んだ父。

 そんな所だけ、父親に似たのか。秋生はふとそう思った。

 父が死んだとき、秋生は大切な何かを失った。母も変わってしまった。何かが決定的に欠落してしまったのだ。

 怪謬の出現は後を絶たない。被害者の報道が出るたびに秋生は心を痛めていた。自分のように何かを失った人がまた増えたのだと、悲しくなった。その悲しみは曖昧な忘却でしか消えることはなく、根本的に解消されることはなかった。

 絶望……そうだ、これは絶望なのだろう。秋生は自分の置かれた状況をそう思った。

 絶望だなんて仰々しいと思っていたが、父が死んだその時から、絶望の影がひたひたと忍び寄っていたのだ。

 今、その影が追いついた。現在という光に絶望という影が差す。見上げればそこには怪謬がいる。怪謬が、すべての絶望の根源だった。

「うぅ……くそ……」

 秋生は腹に突き刺さった金属の支柱を抜こうとする。しかし手が血で滑ってうまくいかなかった。ウェルからは感じている苦痛が伝わっていたが、あちらも自力での脱出は不可能そうだった。

 体が重くなっていく。意識が抜け落ちそうになる。このまま目をつぶれば、きっと楽になれるだろう。もうこれ苦しみながら生きることはない。

 ただ絶望し、終わるのだ。

「ぐっ……あぁっ――!」

 秋生はこみ上げる何かを口から吐き出した。それは赤い血の塊で、自分の足元に飛沫を散らす。そして痛む腹の傷は急激に熱を帯びる。そして秋生は見た。突き刺さっている金属の柱の表面が変化し、侵食されるように千切れ短くなっていく。そして腹の傷を埋めるように蠢き始めた。

 傷は痛む。だが力が溢れていた。異様なほどに、力が溢れてくる。

「うぁぁぁぁああああ!」

 ウェルが咆哮する。そして自らにのしかかっていた一〇メートルを超えるような大きなコンクリート片をはねのけ、そして粉々に砕いた。破片となったコンクリートは落下するが、それは床ではなくウェルの体に吸い込まれていく。意味汚染と同じように、秋生とウェルの存在の意味が周囲の環境を取り込み始めていた。

「何だよ、これ……」

 力が溢れてくる。胸の内に溢れる感情が、そのまま力になる。想いのように、祈りのように、その感情が心を満たしていく。

 全てを失ったと思った。何も成せぬままに。絶望としか名付けようのないその感情が、秋生の心を満たしていた。

「何だよ……何なんだよ、これは……! 正義とか高潔じゃなくて……おれは絶望なのかよ……?!」

 ヒーローは格好よく戦う。弱音は吐かないし、涙を見せたりもしない。ましてや絶望など。

「くそ……いいぜ、やってやるよ……!」

 父の顔を思い出す。被害に遭って転校していった友人を思い出す。母の小さな背中を思い出す。死んだ近所の猫を思い出す。いじめられた事を、悲しかったことを思い出す。父が死んでから、楽しい事なんてほとんどなかった。明るく、普通になんて生きていけなかった。

 でも、それでいい。

 正規獣を生み出す意味インフレーションは、言獣接続者の心の形だと言われる。人それぞれに想いは違う。だからこれでいいのだと、秋生は思った。

 世界が俺を絶望させるのなら……。

「絶望の下に名付ける」

 絶望のままでいい。無数の意味が形作るのが俺の絶望という物語でも、それが自分だ。その絶望を糧に、戦ってやる。

「泥土から立ち上がり、その運命を穿て!」

 ウェルが咆哮する。秋生の体が白く光り、そしてウェルも呼応するように輝く。

 お前は――お前の名は――!

「デイドリオン!」

 意味インフレーションの光がウェルを包み、同時に上空へと飛んだ。その光は大きさを増し、数十メートルにも達する。そして光から二本の腕が生え、十字架の怪謬に躍りかかった。


「うぁぁああ!」

 地鳴りのようにデイドリオンとなったウェルが吠える。

 人型のトカゲのような姿で、その手の鋭い爪を十字架に食い込ませてしがみつく。十字架の怪謬は少し高度を下げるが持ち直し、デイドリオンを振り払おうと回転しながら無数の白い光弾を撃つ。

 光弾の爆裂する衝撃が大気を震わせる。デイドリオンはたまらず十字架から離れるが、その口を開き威嚇するように歯噛みする。そして、固定領域で守られた街を踏みしめながら、デイドリオンは突進する。

 そのデイドリオンに向かって十字架は何発もの光弾を射出する。半分は避けるが、もう半分はデイドリオンの体を打ち消耗させていく。そして十字架はその体から何本もの触手を生み出し、その内の数本がデイドリオンの左脚に巻き付いた。

「うあっ!」

 吠えながらデイドリオンは触手から逃れようとする。だが触手は更に巻き付き、脚から胴、そして胸から頭部へと次々に絡みついていく。

 デイドリオンは締め上げられながら、その体の意味エネルギーを吸収されていった。今この瞬間にも秋生からの意味インフレーションのエネルギーは供給されているが、それも無尽蔵ではない。長くはもたない。

 闇夜に赤い花が咲いた。噴きあがる炎が空を染め、そして空気を斬り裂いていく。

 回転する炎の剣。辛うじて膝をついて起き上がった煌火の彦の攻撃だった。火を吐く剣は十字架の怪謬の触手の大半を切断し、街の郊外へと落ちていく。

 そして、自由になったデイドリオンは残った触手を力任せに引きちぎった。

「うぁぁぁぁああああ!」

 デイドリオンの口が大きく開く。口だけではない。その頬が裂け喉にまで達し、更に鎖骨から胸の辺りまでが開いていく。巨大な口。口元からみぞおちの辺りまでが口と化し、十字架の怪謬に襲い掛かっていく。

 十字架の交差部分に斜めにかぶりつく。口の中では紫色の舌が踊り唾液を滴らせる。そして渾身の力が顎に込められ、めきめきと音を立てながら十字架の体が噛み潰されようとしていた。

 十字架の怪謬は再度触手を出してデイドリオンを締め上げようとするが、デイドリオンは怯まずにその顎に力を込め続ける。石が砕けるような音が街中に響く。破片が散り、少しずつ顎が閉じていく。

 デイドリオンの舌が十字架に張り付いていた赤いバラのような部分をこそげとる。

「おおぉぉ!」

 咆哮。そして一気に十字架を噛み砕き、デイドリオンはその巨大な口を閉じた。

 残った十字架のパーツは意味エネルギーを吐き出しながら地面に落下していく。そのまま時間と共に消滅する運命だった。

「おおぉぉ!」

 デイドリオンがもう一度吠えた。絶望から生まれた獣が、今日ようやく街を救った。その雄姿を秋生は見ていたが、見届けると同時に倒れ込み、そしてデイドリオンも元の姿に戻っていった。

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