第八話 消えない不安

 結局、川の中からは有力な手がかりを見つける事が出来なかった。どうみても落ちてから数年は経っているような古びた財布だとか、靴の片方だとか、あとは雑巾のようなボロ布や石ころだけ。念のためウェルと秋生は意味エネルギーの痕跡を確認してみたが、いずれの拾得物からも強い反応は感じられなかった。

 しばらくは帯刀も川の中で頑張っていたが、どれだけさらっても大したものは出てこなかったので、ついに諦めて帰っていった。

「あの場所で何かあったことは間違いないみたいだけど……依頼しに行った人はどこに消えたんだろう?」

 すっかり日が暮れた午後の七時、秋生も役目を終え夜道を自転車で走っていた。肉体的には大したことはしていないが、意識を集中して意味エネルギーを探るというのは思いの外疲れる事だった。

 途中でスーパーにでも寄って唐揚げ弁当とかかつ丼とか肉を買って帰ろうかとも思ったが、今週の予算はウェルの言獣クッキーでほぼなくなっていた。今日は卵かけご飯で我慢しよう……そう思いながら走り、やがて家に着いた。

「あ……帰ってるのか。夜勤じゃなかったっけ」

 台所の電気がついているのがカーテンの隙間から見えた。秋生の母、珠代は看護師だった。日勤と夜勤が続く日もあり、秋生と顔を合わせない日が続くことも多い。最近は更に昼間にスーパーのパートなどもやるようになって、疲労の度合いが目に見えてひどくなっていた。しかし今の収入ではそうでもしなければ借金を返すことが出来ないらしく、珠代は命を削る様にして働いていた。

「ただいま……」

 秋生は小さな声で言いながら、足音をひそめて台所に近づいていく。ウェルも身を丸めじっと息をひそめる。廊下から台所の中を見ると、机に向かって座り頭を抱えるようにして俯いているのが見えた。

 秋生の足が床板を僅かに軋ませる。その音で珠代は顔を上げ、そして秋生に気付いた。目の下のクマは慢性的で、化粧でも隠せないほどの疲れが表情に滲んでいた。

「ああ、おかえり、秋生……」

「うん、ただいま。今日は夜勤じゃなかったっけ?」

「うん……そうなんだけど、ちょっと……体調が悪くてね、今日は休み……」

「体調が悪いって、風邪とか?」

「違う……ちょっと……スーパーのパートで倒れちゃって」

「倒れた?! って、大丈夫なの?!」

「うん……うん、大丈夫よ。医者の不養生ね……看護師が倒れてれば世話無いわ……ははは」

 珠代は力無く笑った。その作ったような笑顔が秋生は嫌いだった。本当の笑顔を最後に見たのはいつだろうか。秋生には思い出せなかった。

「パート、やめた方がいいんじゃないの?」

「やめるって……駄目よ。お金がいるから……」

「だからって体を壊してた――」

「分かってるわよ! そんなこと、言われなくっても!」

 空気を裂くような珠代の怒声が家に響いた。ウェルはビクリと体を震わせ、秋生の背中に移動して隠れる。

 声の後には沈黙が残り、珠代はハッとして自分の顔を手で覆った。

「ああ……ごめんなさい、違うのよ……あんたは悪くない……分かってるのよ。でも、こうでもしないと返せないのよ……」

 うわごとのように呟く珠代の姿を、それ以上秋生は見ていることが出来なかった。小遣いをもらおうかと考えていたが、とてもそんな状況じゃない。晩御飯を食べる気も失せてしまっていた。

「……じゃ、寝るよ。お休み」

 秋生はそう言い残し奥の自分の部屋に向かった。後ろからすすり泣くような珠代の声が聞こえた。どう考えてもまともな状態じゃない。だからと言って、自分に何ができるのか秋生には分らなかった。せいぜい、自分の身に何があろうと母には隠し、今以上の不安を与えないようにするだけだ。いじめを受けてるなんて言い出せるわけがない。

 部屋に入り、服を着替える。風呂に入る元気もなかった。歯だけみがき、水を飲んで空腹を紛らわせる。

 ベッドに横になっても眠ることは出来ず、秋生は暗い部屋の中で天井を見つめていた。ウェルも秋生の足元で丸くなり眠りについた。


 鬱々とした気分のまま時間がゆっくりと過ぎていく。

 蓄光の数字と針が光る目覚まし時計を見ると、時間はまもなく二時だった。

「二時か……例のサイトの依頼の時間か……」

 ふと帯刀の言っていたことを思い出す。行方不明になった二人は、この時間帯にあの場所に行ったのだ。そして姿を消した。

 ひょっとすると、分かっていないだけでこれまでにも同じような事件があったのかもしれない。そしてひょっとすると今も、あのサイトの内容を見た人が人知れずあの場所に来ているのかもしれない。

「そう言えば……帝山さんは結局何であの場所に来たんだろう。犬が死んだってのは関係ないよな……」

 チャッピーが事故で死んだのならまだしも、脳の腫瘍で死んだのだからあの場所は関係ないだろう。色々な情報が聞こえてくるというようなことを言っていたから、やはり行方不明事件に関係していたのではないだろうか。

 ああ、だめだ。考えると余計に眠れなくなる。秋生は空想することを自制しようとするが、どうにも抑えられない。脳みそが勝手に思考し、高まる意味エネルギーで足元のウェルまでモゾモゾと動き出す。

「あの場所は復讐したい人が来る場所。もし帝山さんもそうだったら……?」

 最近の帝山の様子がおかしかったのは愛犬のチャッピーが死んでしまったからだ。そしてその死はないがしろにされ、まるで新しいアクセサリーのように新しいチャッピーが用意された。

 帝山はきっと怒っている。それは間違いないだろう。しかしだからと言って復讐をするというのは安直に過ぎる。

 だが……帝山が言っていたことを秋生は思い出す。帰る前に言っていた事を。

 他人からはとるに足らない事でも、当人にとっては大事なこともある。行方不明者はその大事なものを奪われた人たちなのかもしれない……。確かそのようなことを言っていた。

「それって……」

 その言葉はそのまま、今の帝山の状況に符合する。大人たちからすればチャッピーの死は取るに足らない事でも、帝山にとってはとても大事なことだった。

 その大事なことを奪われた帝山は……復讐を果たすために今日、あの場所に下見に来た? 突飛な考えのように思えるが、しかし一旦そう考えると考えが止まらない。

 それに様子がおかしいついでに、今日は言獣のウロが一緒ではなかった。いつもは大事そうにキャリーケースに入れて運ぶか、さもなければ襟巻のように首や腕に巻いて行動を共にしているのにだ。

「やっぱり、何かおかしい気がする……考えすぎなのか? でも……」

 秋生は布団をはねのけて上体を起こす。頭の中でぐるぐると思いが渦巻き、それを感じ取ったウェルも体を起こした。

「うぇ!」

 秋生の感じている疑念や不安はウェルにも伝わる。そして、行こうと言っているのだ。誤解や思い込みではなく、それは互いに魂が接続しているから分かる事だった。

「行くぞ、ウェル。どうにも不安が消えない……もし違っていたら、それはそれでいい……」

 秋生は服を着替え、肩にウェルを乗せて静かに玄関に向かう。珠代の寝室は玄関側にある。起こさないようにすり足でゆっくりと進んでいく。

「……何やってるんだろうな、俺は」

 玄関の上がり框に座り込み、靴を履きながら秋生は呟いた。一人で勝手に心配して、こんな夜中に外出することになるとは。きっと全て自分の空想、妄想にすぎない。秋生はそう思ったが、どうしても確かめずにはいられなかった。こんな事なら帝山の連絡先を聞いておけば良かったと後悔するが、後悔先に立たずという奴だ。

 音をたてないようにドアを開け施錠し、自転車置き場に向かう。空には月が浮かび街を煌々と照らしていた。夜気は冷たく、自転車のハンドルを握る秋生の手がかじかむのは時間の問題だった。

「帝山さん……いない、いるわけないよな、あんな場所に……そのはずだ……」

 自分で否定しながらも、どうしても疑念は消えなかった。ウェルはその感情をついばみながら、自転車の籠の中でもう一度微睡まどろんだ。

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