第七話 愛犬
「こんにちは……どうかしたんですか? こんな所に来るなんて」
秋生の問に、帝山は小首をかしげる。
「それは救衆君もでしょう。警察と一緒にいたみたいだけど……もしかして、何かやらかしたの?」
少し険しい表情で帝山が言った。秋生は右手を顔の前で激しく振りながら否定する。
「いやいや、違いますよ! け、警察から捜査に協力してくれって言われただけで、別に俺は何もしてませんよ!」
帝山は秋生の言葉に小さく笑いを返した。
「冗談よ。でもそんなに強く否定するなんて、何か後ろ暗いことでもあるのかしら」
「な、何言ってるんですか! 別にやましいことなんか……!」
トイレが我慢できなかったときに立ちションしたり、ウェルが他所様の庭に入って花壇を踏み荒らしたりといった事が秋生の脳裏によぎっていた。だが、流石に警察沙汰になるようなことは覚えがなかった。
同時に、秋生は少し困惑していた。帝山や大岩戸とは怪謬と戦う時にしか会わない。大岩戸は何かと言獣接続者の後輩である秋生に世話焼きをして色々なアドバイスをしてくるが、帝山とは任務上の必要最低限の会話だけで、世間話さえ交わしたことはなかった。帝山がこんな冗談めいたことを言ってくるとは、秋生には全く予想外のことだった。
「ふふ、ごめんなさい。年下をいじめるのはこのくらいにしておくわ……警察の件は、行方不明事件の事かしら?」
帝山がいつもの理知的な表情に戻り聞いた。ややもすれば冷たい表情にさえ見える。秋生は気を取り直し答えた。
「はい。ここで二人行方不明になってるらしいんです。さっき下の川のところを調べたら、ウェルが意味エネルギーの痕跡を見つけたんです。今は、行方不明の人の手がかりがないか刑事さんが川の中を調べてます」
「そう」
「ひょっとして……帝山さんも呼ばれたんですか? この事件のことで?」
「……いえ、違うわ」
そう答える帝山の表情が曇るのを秋生は見た。一瞬、まるで泣き出しそうな表情だった。
「何かあったんですか?」
「え?」
少し驚いたように帝山が目を見開く。
「あ、すいません! なんかいつもと様子が違って見えたから……すいません、変なこと言っちゃって……!」
帝山がここに来た理由。お忍びで何かを探しに来たのか。どんな秘密を隠しているのか。秋生から見れば帝山は高嶺の花であり、窺い知れない謎めいた女性に見える部分が多い。そんな事が頭の中に渦巻いていて、不意に秋生は口を滑らせてしまった。時々やらかしてしまうが、空想癖とセットでどうにも止められるものではなかった。
帝山は秋生を見つめる。少し迷ったような間をおき、吐息とともに帝山が答えた。
「……飼ってた犬がね、死んでしまったの」
「犬……?」
秋生は帝山の犬の事を何かで聞いたことがあった。名前までは覚えていないが、テレビのニュースか何かで散歩しているような様子を見た記憶があった。茶色い毛の大型犬だったはずだ。その犬が、死んだ?
「チャッピー……私が十歳になった時に飼ってもらったの。私の弟みたいなものだったわ。一緒に遊んで、散歩して、雷の日には一緒に寝たこともあった。でも病気で……脳に腫瘍ができて、それが原因で死んでしまった。それが一週間前のことよ……」
「それは……お気の毒様です……」
だから悲しそうな顔をしていたのかと、秋生は得心した。犬が病気で死ぬ……生き物である以上はそういったことから逃れることはできない。しかし帝山の身にそんな悲しみが降りかかるとは、秋生にはどうにも信じられなかった。
帝山は普通の人間ではない。家が金持ちで、学校に来るのだって黒塗りのでかい車だ。毎日の弁当だって専属のシェフが作ったという豪華なものらしい。一から十まで絵に描いたような金持ちムーブで、庶民とはぜんぜん違う生活をしている。きっと満ち足りた生活をしているのだろう。秋生はそう思っていた。
だから、そんな帝山の生活にペットの突然の死という悲しみが入り込む余地などないように思えた。帝山のような金持ちは死ぬまでいいことばかりが続いていく。だが、人並みにペットが死んで悲しんでいるとは……。
「ええ、ありがとう。でもね、本当に悲しいことが起きたのは昨日よ……」
帝山は橋の欄干に手を載せ、川の下流を見つめながら言葉を続けた。
「新しい犬が来たのよ。一歳くらいの同じラブラドールレトリバー……名前はチャッピー」
「チャッピー……? 死んだ犬と同じ名前ってことですか」
一体どういうことなのか秋生にはよく分からなかった。帝山は静かな声で続けた。
「私は帝山グループの一員で、若い人向けの広告塔なのよ。だから普段からうちの商品を宣伝したり、新しい服とかをSNSに載せたりしてる。知ってる?」
「はい。見たことあります。テレビとかも時々……」
しかしそれがチャッピーとどう結びつくのか秋生には分からなかった。
「私のイメージはグループのため。犬を飼っているのもその一環でしか無い。だから、犬がいなくなったから新しいのを仕入れたのよ。ペットでも家族でもない。まるでアクセサリーの一部としか、大人たちは考えていなかった。一般の人にはチャッピーが死んだという情報は公開されず、以前と変わらぬチャッピーがSNSの中で生きることになる。チャッピーの遺体も私に断りなく勝手に火葬されてしまった。死を悼む時間さえ私にはなかった……」
「それは……」
お気の毒様です、と言う言葉さえ秋生には言えなかった。言っていることは分かる。帝山響子は普通の人間ではない。広告塔というのもそのとおりだろう。だがペットがそんな風に扱われるとは……会社としての理屈は分かるが、秋生は帝山に同情した。
「なんかもう、疲れちゃった……」
空を仰ぎ、独り言のように帝山が呟く。
「毎日お嬢様を演じるのも、グループの宣伝をするのも……ペットさえ満足に愛することもできない。私が言獣接続者として戦っているのも、正義や平和のためではなく、帝山グループの広報戦略に過ぎない……何もかも、放り出してしまいたい。でも……そう思っても、私には今の生活を捨て去ることができない。なんだかんだとメディアでは持ち上げられているけど、私はただの十七歳の子供でしか無い。電子レンジだって自分で使ったこと無いのよ? 生活力皆無のただの子供……」
言いながら、感情を抑えるように欄干を掴む手に力が込められているのが見えた。
「私は抵抗するだけの力がない。だから、チャッピーの死を忘れて今までと同じように振る舞うしか無い。何もかも偽物……私の人生なんて、全部作り物なのよ……」
「それは……違うんじゃないですか」
「……何が?」
泣きそうな表情のまま、帝山は秋生を見た。その表情に秋生は少し怯むが、意を決したように答える。
「イメージは偽物でも、帝山さんがチャッピーのことを愛していた事は本物じゃないですか。それだけは誰にも奪うことはできない……自分でそこまで否定したら、それこそ全部偽物になっちゃいます……」
秋生は目に涙をためて答えていた。秋生の心の中には悲しみが渦巻いていた。十歳の時に飼い始めたというチャッピー。きっと色々なことがあったのだろう。家族として一緒に過ごした日々……その事を思い、秋生は涙を流しそうになっていた。帝山響子の人生は思っていたほど薔薇色ではなかった……それを支えたのがチャッピーだったのかも知れない。だとすれば、そのチャッピーとの別れは、真に家族を失ったのと同じことだろう。
その全てはいつもの秋生の空想に過ぎなかったが、それを自覚していてもなお秋生の心は揺れていた。肩の上では、ウェルが口をパクパクと動かしていた。急に増大した秋生の意味エネルギーを食べているところだった。空腹のウェルの体に、乾いた砂が水を吸うように意味エネルギーが吸い込まれていく。
「帝山さんの苦労は俺にはわからないけど……チャッピーはきっと幸せだったと思います。だから、悲しいことを言わないであげてください」
零れそうになる涙をこらえ、秋生は鼻をすすりながら言った。その様子に帝山は面食らっていたが、少し微笑み答えた。
「そうね……私はチャッピーを愛していた。それは、確かに君の言うとおりに本当のことだわ。イメージ戦略も何も関係がない……ありがとう。まさか君にこんな事を言われるとは思っても見なかった」
「す、すいません……! か、勝手なことばかり言っちゃって……!」
秋生は目に溜まった涙を手で拭った。
「君は……感受性が豊かなのね。言獣接続者なだけはある。ウェル君が君を選んだ理由が分かった……」
帝山は優しい目でウェルを見つめる。ウェルは秋生の肩の上で、秋生の頭にしなだれかかるようにして座っていた。満腹で少し眠くなっているようだった。
「そうですか……あっ、こいつ寝ようとしてる。起きろよ、お前!」
秋生がウェルを揺するが、ウェルはうるさそうに後ろ足で秋生の手をはねのけた。大きなあくびをし、ウェルは体を丸めて肩の上で眠り始めた。秋生はずり落ちないように右手でウェルの背中を支える。
「……いい相棒ね、あなた達は」
「そうですか? 大飯食らいで言うことも聞かないし……あれ? そういえば、ウロはどうしたんですか?」
秋生は帝山が手ぶらなことに気づいた。秋生がウェルを肩に乗せて運んでいるように、帝山はキャリーケースにウロボロスを入れて行動している。
「……ええ、ちょっとね」
言いながら、帝山は視線を川の方に戻す。まるで目を逸らしたように秋生には見えたが、きっと近くの車の中にでも置いてあるのだろうと思った。
「行方不明の人、見つかるといいわね」
「え、あ、はい! そうですね……なにか手がかりがあればいいけど……でも何で復讐代行サイトなんかに依頼したんだろう。そんなことしなけりゃ、こんなことにもならなかったんだろうに」
行方不明者は職場の人間関係や友人との関係に悩んでいたらしい。人の悩みは色々だろうが、わざわざ復讐なんかをするほどのことはないだろう。秋生にはそう思えた。
だが自分の経験で言うならば、例えば教科書を破いたり上履きを隠したやつを恨んだことはある。復讐したいという気持ちがないではないが、しかし、他人に頼んでまで恨みを晴らそうとまでは思えない。自分が我慢していれば万事うまく行くのだ。波風が立つことはない。ただでさえ過労気味の母に無用な心配をかけることもない。
「取り返しのつかないものを失った時、人は平静ではいられなくなる。他人からすれば取るに足らないことでも、当人にとっては……自分の命のように大事なこともある。きっと、そういうものを失ったり傷つけられたんでしょう。行方不明になった人たちは……」
「はあ……そういうものなんでしょうか……」
帝山もまだ未成年の子供ではあるが、少なくとも秋生よりは年上だった。その帝山が言うことなのだから、きっとそういうものなのだろうと秋生は思った。自分の命よりも大事なもの……秋生には想像もつかなかったが。
「あなたの恨み、十倍にして晴らします。例のサイトにはそんなキャッチコピーがあった。それを真剣に考える人が少なくとも二人はいたということね」
「……そんな事が書いてあったんですか? 普通に見られるんですか、そのサイトって」
「会員制でいくつかの手順をふまないと見ることはできない。でも、今はもうアクセスできなくなっている。管理者が誰か警察でも調べてるみたいだけど……行方不明者同様まだみつかっていない」
「今はアクセスできない……」
ならば、帝山はどこでそのキャッチコピーを知ったのだろうか。帯刀はそんな細かいことまでは教えてはくれなかった。
「調べたんですか、自分で? 詳しいですね……」
「……ええ。私のところには色々と情報が集まるのよ。怪しい情報も含めてね……」
帝山は視線を落とし息をつくと、秋生の方に向き直って言った。
「……行くわ。ごめんなさいね。なんだか愚痴に付合わせてしまったみたいで」
「いえ……俺こそすいません。なんか生意気なことを言っちゃって」
秋生は鼻をまたすすりながら答えた。帝山の表情がいくらか晴れやかなものに見えて、秋生は少し安心をした。そして帝山のような人間でも時に思い悩むことがあるのだと知った。別世界の人間だと思っていたが、やはり同じ人間なのだ。そんな事は当然すぎることだったが、秋生にとっては新鮮な事実だった。
「お仕事、頑張って……ごきげんよう」
「は、はい……」
ごきげんようになんと返せばいいのか分からず、秋生は曖昧な返事を返した。帝山は橋の向こうへ歩いていき、やがて姿が見えなくなった。
「チャッピー……死んじゃったんだってさ」
秋生は肩の上のウェルを撫でる。ウェルは寝返りを打って腹を見せ、ごきげんな様子で鼻を鳴らした。
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