知らないことだらけ


 千代君。

 私のことを懸命に守ってくれる千代君。

 そんなあなたが大好き。

 電車の揺れで、時々当たる肩が好き。

 揺れるたびに私を気遣って視線を送ってくれるその目も好き。

 私の冷たい手を温めてくれる大きな手も、大好き。


 あの時、私の手を取って走り出してくれてよかった。

 私、あのままあの子たちと話していたら、おかしくなっちゃいそうだった。


 無意識みたいな感覚だったけど、はっきり覚えてる。 

 死んじゃえって、そう思いながら彼女たちを見ていた。


 殺してやろうって、手に力が入った。


 千代君がいなかったら、きっと大変なことになってた。

 ううん、あんなやつら死ねばいいのにってまだ思ってるから、多分私は誰かを絞め殺しても、大変なことになったなんて思いもしなかった。


 だけど。

 千代君の手がさっきからずっと、何かを怖がるように震えているから私、自分がちょっとおかしいのかなって思うようになった。


 どうしてそんなに辛そうな顔するの?

 私といると、不安?

 それとも、重荷?

 

 私のことを、クラスのみんなが白い目で見ていたけど、やっぱり私はおかしいのかな?

 みんながおかしいって思ってたけど、私ってどこか変なのかな?

 千代君なら、ちゃんと答えてくれるのかな?

 それとも、私のために優しい嘘をついてくれるのかな?


 でも、聞くのが怖い。


 なんだろう、こんな気持ち初めて……。



「紫苑さん、お風呂入ってきますね」

「うん。お料理は任せて」

「はい。それじゃお願いします」


 家に帰ってすぐに俺は先輩をキッチンに置いて風呂場へ向かった。


 帰り道でもほとんど話さなかった先輩がやはり心配だったけど、家が見えてきたあたりでちょっとだけ表情が戻ったので、少しホッとしている。


 ただ、やっぱり学校での先輩はおかしかった。

 泣いてたから、じゃない。


 泣いていたのに、なぜか俺は先輩のことを怖いと思ってしまっていた。

 宮間さんたちを、まるで親の仇のように睨みつけ。

 指先まで力が入っていて。

 今にも彼女たちに飛びかかりそうだったように、俺にはそう見えた。


 気のせい、だったらいいけど。

 あの時俺が先輩を連れ出さなかったらどうなっていたのか。


 もちろん、俺はそんなことくらいで先輩を嫌いになんてならないけど。

 むしろ、宮間さんたちに対しての怒りの方が強いけど。


 でも。

 やっぱり先輩に誰かを傷つけてほしくない。

 好きな人の手を汚したくない。      


「今日は風呂が沁みるな」


 湯船に浸かりながら気持ちを整理する。

 ご飯を食べたら、先輩とちゃんと話をした方が、いいよな。

 俺、まだ先輩のこと何も知らない。

 あんなに綺麗で面倒見がよくて料理も上手な先輩が、なんで俺なんかを好きでいてくれるのか。

 いつも毅然としてる先輩が、なんで俺のことになるとあんなにも不安定になるのか。


 答えてくれる、かな。

 先輩……。

 



「あがりましたよ」

「うん、ご飯もうすぐできるよ」


 キッチンに戻ると、先輩はエプロン姿で俺を出迎えてくれた。

 料理のいい匂いがする。

 それに先輩も。


「あの、紫苑さん。なんでいつもそんなにいい匂いがするんです?」


 ちょっと場を和ませようと、普段から思っていたことを率直に聞いてみた。

 先輩の甘い香りの正体なんて別にどうでもいいんだけど。

 そんなことも俺は知らないから。

 先輩のことを、もっと知りたい。


「……香水つけてるの。匂い、気になる?」

「そうなんですね。いえ、とてもいい香りだなって、ええと、いつも思ってました」

「そっ、か。私の匂い、好き?」

「は、はい。とても好きです。俺……やっぱり紫苑さんのことが好きです」


 好きだ。

 大好きだ。

 だから、もっと先輩のことを知りたい。


「……千代君。私も大好き」

「あの……どうして紫苑さんは俺のことを? 俺、大したことなんてなにもしてないのに」

「ううん。いつも千代君は勇敢に私のこと、守ってくれてるよ。学校でも、電車でも、どこでも」

「そんな……俺は別に何もできてませんよ」

「ううん、そんなことない。ねえ、私ってちょっとおかしいのかな?」


 先輩はオタマでシチューを混ぜる手を止めて。

 俺の方を悲しそうな顔で見てくる。


「おかしい? 紫苑さんはなにもおかしくなんかありませんよ」

「……でも、私って他人が嫌いなの。今日も、話しかけてきた女の子たちのこと、本気で死ねばいいって思ったし。そういうことを思うのって、変だよね?」


 そう言って先輩は下を向く。

 やっぱり今日のことを気にしていたんだ。

 それに、死ねなんて気持ちを他人に向けるほど、先輩は他人が苦手なんだと。

 それは確かに危険な発想かもしれない。

 普通なら、おかしいと思うのかもしれないし、俺だってそれが普通のことだとは思わないけど。


 でも、先輩はただおかしい人なんかじゃない。


「死ねとか、殺してやろうとかは思ったら良くない、ですよ」

「うん……でも、そう思っちゃう私ってやっぱり」

「でも、俺だって嫌いな人に対して死ねって気持ちにくらいなりますよ」

「……え?」

「本当に殺しちゃったらダメですけどね。誰を好きで誰を嫌いになるかなんて人の自由です。先輩は他の人より嫌いな人が多いだけですよ。それに……俺のことは好きなんですよね?」

「うん。大好き」

「ならそれでいいじゃないですか。俺は別に紫苑さんが他人と付き合うのが苦手で、それこそ誰とも遊ばなくても寂しい人だとか思いません。その方が俺も、紫苑さんを占領できるので嬉しいですし」

「千代君……うん、私も。私、千代君が友達と会うの、嫌なの。ずっと一緒がいいって思うの。それもやっぱり変、なのかも」

「そんなことないです。俺も、同じ気持ちです。まあ、友達も大切にはしたいとは思いますけど。それより大事なものがあるので」

「……寝てる間に昨日みたいなこと、しちゃう女でも?」

「え?」


 先輩が、急に顔を真っ赤にした。

 初めて、まともに照れる姿を見てドキドキした。

 でも、昨日みたいなことって……キス、のことだよな?

 俺が寝てる間にキス、したのか?

 

「……めっちゃ嬉しいです。そこまで俺のこと好きでいてくれるなんて」

「我慢できなかっただけだよ? いいの?」

「はい。俺が先に寝たらいつでもしてください、なんてちょっと変ですかね」

「……ううん。じゃあ、千代君が寝てる間もいっぱいしちゃう」


 そう言って、先輩が笑った。

 いつも少し虚ろ気味な目が、はっきりと焦点が合った。


 そして。


「私、お風呂入ってくる。あと、歯磨きも。お口、綺麗にしてないと」

「俺も歯磨きしないと。ええと、今日は苦くないように」

「歯磨きすると、味変わるの?」

「へ? さ、さあどうなんでしょう。でも、一応爽やかにはなるかなと」 

「男の子って不思議だね」

「はあ」


 先輩はクスッと笑いながら先に風呂場へ行ってしまった。

 俺はその手前の洗面所に行って、歯磨きを始める。


 洗面台の鏡を見ながら、口を大きく開けてみる。


 歯磨きくらいじゃ口臭は変わらないってこと、なのかな?

 

 ……マウスウォッシュ、買いにいこうかな。

 

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