知らないことだらけ
♡
千代君。
私のことを懸命に守ってくれる千代君。
そんなあなたが大好き。
電車の揺れで、時々当たる肩が好き。
揺れるたびに私を気遣って視線を送ってくれるその目も好き。
私の冷たい手を温めてくれる大きな手も、大好き。
あの時、私の手を取って走り出してくれてよかった。
私、あのままあの子たちと話していたら、おかしくなっちゃいそうだった。
無意識みたいな感覚だったけど、はっきり覚えてる。
死んじゃえって、そう思いながら彼女たちを見ていた。
殺してやろうって、手に力が入った。
千代君がいなかったら、きっと大変なことになってた。
ううん、あんなやつら死ねばいいのにってまだ思ってるから、多分私は誰かを絞め殺しても、大変なことになったなんて思いもしなかった。
だけど。
千代君の手がさっきからずっと、何かを怖がるように震えているから私、自分がちょっとおかしいのかなって思うようになった。
どうしてそんなに辛そうな顔するの?
私といると、不安?
それとも、重荷?
私のことを、クラスのみんなが白い目で見ていたけど、やっぱり私はおかしいのかな?
みんながおかしいって思ってたけど、私ってどこか変なのかな?
千代君なら、ちゃんと答えてくれるのかな?
それとも、私のために優しい嘘をついてくれるのかな?
でも、聞くのが怖い。
なんだろう、こんな気持ち初めて……。
♤
「紫苑さん、お風呂入ってきますね」
「うん。お料理は任せて」
「はい。それじゃお願いします」
家に帰ってすぐに俺は先輩をキッチンに置いて風呂場へ向かった。
帰り道でもほとんど話さなかった先輩がやはり心配だったけど、家が見えてきたあたりでちょっとだけ表情が戻ったので、少しホッとしている。
ただ、やっぱり学校での先輩はおかしかった。
泣いてたから、じゃない。
泣いていたのに、なぜか俺は先輩のことを怖いと思ってしまっていた。
宮間さんたちを、まるで親の仇のように睨みつけ。
指先まで力が入っていて。
今にも彼女たちに飛びかかりそうだったように、俺にはそう見えた。
気のせい、だったらいいけど。
あの時俺が先輩を連れ出さなかったらどうなっていたのか。
もちろん、俺はそんなことくらいで先輩を嫌いになんてならないけど。
むしろ、宮間さんたちに対しての怒りの方が強いけど。
でも。
やっぱり先輩に誰かを傷つけてほしくない。
好きな人の手を汚したくない。
「今日は風呂が沁みるな」
湯船に浸かりながら気持ちを整理する。
ご飯を食べたら、先輩とちゃんと話をした方が、いいよな。
俺、まだ先輩のこと何も知らない。
あんなに綺麗で面倒見がよくて料理も上手な先輩が、なんで俺なんかを好きでいてくれるのか。
いつも毅然としてる先輩が、なんで俺のことになるとあんなにも不安定になるのか。
答えてくれる、かな。
先輩……。
◇
「あがりましたよ」
「うん、ご飯もうすぐできるよ」
キッチンに戻ると、先輩はエプロン姿で俺を出迎えてくれた。
料理のいい匂いがする。
それに先輩も。
「あの、紫苑さん。なんでいつもそんなにいい匂いがするんです?」
ちょっと場を和ませようと、普段から思っていたことを率直に聞いてみた。
先輩の甘い香りの正体なんて別にどうでもいいんだけど。
そんなことも俺は知らないから。
先輩のことを、もっと知りたい。
「……香水つけてるの。匂い、気になる?」
「そうなんですね。いえ、とてもいい香りだなって、ええと、いつも思ってました」
「そっ、か。私の匂い、好き?」
「は、はい。とても好きです。俺……やっぱり紫苑さんのことが好きです」
好きだ。
大好きだ。
だから、もっと先輩のことを知りたい。
「……千代君。私も大好き」
「あの……どうして紫苑さんは俺のことを? 俺、大したことなんてなにもしてないのに」
「ううん。いつも千代君は勇敢に私のこと、守ってくれてるよ。学校でも、電車でも、どこでも」
「そんな……俺は別に何もできてませんよ」
「ううん、そんなことない。ねえ、私ってちょっとおかしいのかな?」
先輩はオタマでシチューを混ぜる手を止めて。
俺の方を悲しそうな顔で見てくる。
「おかしい? 紫苑さんはなにもおかしくなんかありませんよ」
「……でも、私って他人が嫌いなの。今日も、話しかけてきた女の子たちのこと、本気で死ねばいいって思ったし。そういうことを思うのって、変だよね?」
そう言って先輩は下を向く。
やっぱり今日のことを気にしていたんだ。
それに、死ねなんて気持ちを他人に向けるほど、先輩は他人が苦手なんだと。
それは確かに危険な発想かもしれない。
普通なら、おかしいと思うのかもしれないし、俺だってそれが普通のことだとは思わないけど。
でも、先輩はただおかしい人なんかじゃない。
「死ねとか、殺してやろうとかは思ったら良くない、ですよ」
「うん……でも、そう思っちゃう私ってやっぱり」
「でも、俺だって嫌いな人に対して死ねって気持ちにくらいなりますよ」
「……え?」
「本当に殺しちゃったらダメですけどね。誰を好きで誰を嫌いになるかなんて人の自由です。先輩は他の人より嫌いな人が多いだけですよ。それに……俺のことは好きなんですよね?」
「うん。大好き」
「ならそれでいいじゃないですか。俺は別に紫苑さんが他人と付き合うのが苦手で、それこそ誰とも遊ばなくても寂しい人だとか思いません。その方が俺も、紫苑さんを占領できるので嬉しいですし」
「千代君……うん、私も。私、千代君が友達と会うの、嫌なの。ずっと一緒がいいって思うの。それもやっぱり変、なのかも」
「そんなことないです。俺も、同じ気持ちです。まあ、友達も大切にはしたいとは思いますけど。それより大事なものがあるので」
「……寝てる間に昨日みたいなこと、しちゃう女でも?」
「え?」
先輩が、急に顔を真っ赤にした。
初めて、まともに照れる姿を見てドキドキした。
でも、昨日みたいなことって……キス、のことだよな?
俺が寝てる間にキス、したのか?
「……めっちゃ嬉しいです。そこまで俺のこと好きでいてくれるなんて」
「我慢できなかっただけだよ? いいの?」
「はい。俺が先に寝たらいつでもしてください、なんてちょっと変ですかね」
「……ううん。じゃあ、千代君が寝てる間もいっぱいしちゃう」
そう言って、先輩が笑った。
いつも少し虚ろ気味な目が、はっきりと焦点が合った。
そして。
「私、お風呂入ってくる。あと、歯磨きも。お口、綺麗にしてないと」
「俺も歯磨きしないと。ええと、今日は苦くないように」
「歯磨きすると、味変わるの?」
「へ? さ、さあどうなんでしょう。でも、一応爽やかにはなるかなと」
「男の子って不思議だね」
「はあ」
先輩はクスッと笑いながら先に風呂場へ行ってしまった。
俺はその手前の洗面所に行って、歯磨きを始める。
洗面台の鏡を見ながら、口を大きく開けてみる。
歯磨きくらいじゃ口臭は変わらないってこと、なのかな?
……マウスウォッシュ、買いにいこうかな。
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