初めての味


「……千代君?」


 キスをしたあと。

 私はしばらく彼の手を握りながらその時を待った。

 今日、いよいよ彼と一つになれる。

 そんな期待に私は胸を膨らませ、あちこちを湿らせていた。


 でも、


「寝ちゃった?」


 静かになった千代君の方を見ると、目を瞑ってウトウトとしていて。

 そのあと、まるで限界を迎えたようにすうっと夢の中に落ちていく彼を見てしまった。

 

「……もう。まだ、キスしかしてないのに」


 彼にとっては初めてのキス。

 私は……昨日たくさんしたからちょっとドキドキしただけだったけど、千代君ったら、キスで緊張の限界を越えちゃったんだ。


 可愛い。好き。

 でも、ちょっとだけ残念。

 せっかく、体の方は正直に反応してるのに、ね。


「だけど、せっかく千代君の体もその気みたいだから。ちょっとだけ、いいよね?」


 彼の下半身に手を伸ばすと、私を抱くための準備はしっかり整っていた。

 もう、もったいないなあ。

 それに、こんなままだったらきっと苦しいよね?


 うん、今日は寝ちゃったから初夜は明日のお楽しみにとっておくとして。


「私がスッキリさせてあげる。楽にしてあげるから、待っててね」




「……ん?」


 目が覚めた時、部屋はまだ薄暗かった。

 俺、いつの間に寝ていたんだろう。

 昨日は確か先輩と一緒にベッドに入ってそれで……。


「あ……」


 キスされたことを、ふと思い出した。

 そして慌てて隣を見ると、そこにはもう先輩の姿はなかった。


「先輩……」


 唇を触りながら、昨日の出来事が夢じゃなかったよなと、記憶を探る。

 しかし、どう考えても夢なんかじゃない。 

 俺、先輩にキスされたんだ。


「……でも、あの後すぐに寝ちゃったってこと、なのか」


 よく覚えていない。

 ファーストキスの味なんてものも、あまり覚えていない。

 ほんのり甘い感じはしたけど、それくらい。

 でも、たしかに俺の唇に、冷たい彼女の唇が触れたことだけは、覚えている。


 そのあとはずっと、天井を見上げたまま彼女の方を見ることもできず。

 キスのあとに何をどうすれば良いのかすら知らない俺は必死にエロ本で得た知識を引っ張り出そうと、回らない頭を回転させようと必死になっていたけど。


 そのまま、寝落ちしてしまったようだ。


「……やばっ」


 しかしどうあれ、キスをした。

 先輩と。

 あの、氷織紫苑と俺は、キスをしたんだ。


 あれは夢でも幻でもなかったんだって、確かめないと。


「……あ」


 慌てて部屋を出てキッチンに向かうと、そこにはいつものようにエプロン姿で料理をしている先輩の姿があった。


「おはよう千代君。昨日は、寝ちゃったね」


 振り返りながら、少し寂しそうに先輩はそう言った。

 しかし、照れている様子はない。

 その表情だけを見ると、やっぱりキスなんかしてないんじゃないかと思わされるほと、先輩はいつも通りだ。


「お、おはようございます……あの、俺って、すぐ寝ちゃいました?」

「うん。静かだなって思って覗き込んだら、寝てたよ」

「そう、ですか」

「うん。もうすぐご飯できるから」


 まるで何事もなかったかのように、先輩はそう言ってから再び料理を始める。


 もしかして、やっぱりキスは夢だったのか?


「あの、紫苑さん……昨日の夜のこと、なんですけど」

「気持ちよかった?」

「え?」

「初めて、だったんだけど。あの……下手だった?」

「初めて……い、いえ俺もその、初めて、だったから……でも、とても気持ちよかったです」


 恥ずかしそうに聞いてくる先輩を見て、ようやく昨日の出来事が全て夢ではなかったんだと確信した。


 やっぱり俺、キスしたんだ。

 それに先輩も初めてだったなんて。

 嬉しい。

 だけど、また無理させちゃったんだな。


「すみません、先輩の方からさせてしまって。俺、本当は男なんだからリードしないと、なのに」

「ううん、いいの。だけど、ちょっと苦いんだね」

「にが、い? あの、苦かったですか?」

「うん。だけど、嫌いな味じゃなかったから。気にしないで」

「はあ」


 俺は思わず自分の口に手を当てて息を吐いてみる。

 しかし昨日の夜にちゃんと歯磨きもしていて、口臭もしないと思うんだけど。


 キス、やっぱり嫌だったのかな。


「あの、何か嫌なところとか、ありました?」

「ううん、ないよ。私も、とても嬉しかったから」

「ほ、ほんとですか? なら、いいんですが」


 先輩は特に嫌そうな素振りも見せず、それを見てホッとする。

 そして、ホッとしたところで俺はふと、キスの感触を思い出してしまう。


 もう一度、してみたい。

 恋人同士なら、おはようのキスとかいってきますのキスとかもするって、よく聞くし。


 昨日は先輩にリードされて終わってしまったけど。

 俺だって男なんだから。

 勇気を出して、聞いてみよう。


「あの」

「どうしたの?」

「ええと……今、ここでもう一度してほしいって言ったら、その、ダメですか?」


 これが精一杯。

 キスしよう、とか。

 キスさせてくれ、なんてとてもストレートには言えなかったけど。

 話の流れで伝わるはずだと。

 言葉に詰まりながら聞いてみると、


「明るいから、恥ずかしい」


 断られた。


「あ…‥す、すみません。そ、そうですよね。あ、朝から何言ってんだろ俺って」

「ううん、いいの。男の子だもんね」

「ま、まあ……お、俺着替えてきます!」


 積極的になろうとして、結果的に先輩を困らせてしまった俺は逃げるように部屋にもどった。


 そうだ、先輩は大人だけど純粋なんだ。

 キスだって、きっと相当恥ずかしかったに違いない。


 なのに俺のために頑張ってくれたんだな。

 俺も、頑張らないとだけど調子に乗ってあんまりガツガツしないようにしないと。



「もう、千代君ったらえっち」


 朝からしてほしいなんて。

 もちろん嫌じゃないし、むしろしてあげたいくらいだったけど。

 

 さすがにそんなことしたら、恥じらいのない女だって思われちゃうかもだし。

 ちょっと恥ずかしそうにした方が、千代君も安心するよね。


 それに、今日の夜のためにちゃんと溜めておかないと、ね。


「今夜は、絶対に寝かせないからね。えへへっ」

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