記念日


「先輩、お風呂あがりました」


 今日は長風呂だった。

 というのも先輩に、「ゆっくり入ってきてね」と何度も念を押されたからである。


 そして風呂に浸かっている間、ずっと悩んでいた。


 先輩と俺は、付き合った。

 はずなんだけど先輩の態度を見ているとどうも伝わってるようにも思えなくて。

 もしかして風呂から出たら「あれは冗談」なんて言われないかドキドキしていて。


 それを確かめたくてキッチンの扉を慌てて開ける。


 すると料理の途中だった先輩が、首を傾げながら俺を見てくる。


「……」

「な、何かありました?」

「先輩って、その方が呼びやすい?」

「え?」

 

 先輩はキョトンとした顔をこちらに向けてくる。

 そしてもう一度。


「先輩って、その方が呼びやすい?」


 そう、聞き直してきた。


「え、ええと。まあ、なんとなくそう、呼んでただけですけど」

「紫苑」

「え?」

「名前で呼んだ方が、親しみがあると思うの。どう、かな?」


 なんで急に先輩がそんな話をしてきたのか不思議だったけど、すぐにその意味がわかった。


 先輩も、俺と付き合うと言った以上ちゃんとしたいと思ってくれてるということなんだろう。

 いきなり俺のことが好き、とはならないまでも、やっぱり俺の気持ちを知った上で歩み寄ろうとしてくれてるんだ。


 ……だったら俺も。

 いや、俺の方が頑張らないと。


「……じゃあ、名前で呼んでいいですか?」

「うん。私も、名前で呼んでいい?」

「も、もちろんですよせんぱ……ええと、紫苑、さん」

「うん、なあに千代君?」

「い、いえ……ご飯、いただいてもいいですか?」

「うん、もちろん」

「……」


 初めて名前で呼んだことももちろん緊張した、けど。

 それ以上に、初めて先輩から名前を呼ばれたことが嬉し過ぎて、体が熱くなる。


「と、とりあえず……いただきます。うん、美味しいです」

「肉じゃがって、難しいけど大丈夫だった?」

「め、めちゃくちゃ美味しいですよせんぱ……紫苑さん。俺、こんな美味しい料理作ってもらってたら、そりゃあ……好きにもなりますよ」

「うん、よかった。私も、ちゃんとパートナーとして頑張るから」

「パートナー……うん、俺も頑張ります」


 そんな会話で、ようやく俺は実感が湧いてきた。

 本当に俺、先輩と恋人になれたんだ。

 夢、ではないようだ。

 先輩はいつも冷静だからリアクションが薄くて戸惑ったけど。

 やっぱり先輩も俺のことを男として見てくれていたってこと、なんだな。

 やばい、急に嬉しさが込み上げてきた。


 どうしよう……逆に喋れなくなってきた。


「……」

「どうしたの千代君? やっぱり、美味しくない?」

「い、いえ。とても美味しいです」

「うん、よかった。いっぱい食べてね」

「……あの、どうして紫苑さんは、こんなに俺によくしてくれるんですか?」


 俺は声を振り絞った。

 前からずっと、疑問に思っていた。

 いくら面倒見がよくて、仲のいい母の頼みだからって、よく知りもしない男のためにここまで献身的にしてくれるのはなぜか。

 そのおかげで俺は先輩を好きになったわけだけど。

 先輩はどうして俺なんかのために尽くしてくれるのか。


「?」


 しかし先輩は俺の質問に対して、首を傾げる。

 

「なんでって、なんで?」

「い、いえ……こんなに美味しいご飯をいつも作ってくれるのはなんでかなって」

「パートナーだから、普通じゃない?」

「え、ええと、そうじゃなくてですね」


 今は恋人同士なんだから当然じゃないか、と言う先輩にはいまいち俺の質問の意図が伝わっていない。

 今の話じゃなくてそれ以前のことを聞いてるんだけど。


「おかしな千代君。恋人や家族のために尽くすのは、普通だよ?」

「え、ええと……まあ、それはそうなんですが」

「それより、食べたらケーキあるから。早く食べて」

「は、はい」

 

 やっぱり先輩はちょっと天然だ。

 もちろん、そんな変わったところがあったから俺みたいなのがお近づきになれた、という話なんだけど。

 うーん。まあ、先輩がいいのであればいい、のかな。


「ごちそうさまでした」

「うん。ケーキ用意するね」

「は、はい」


 食器を片付けたあと、先輩は冷蔵庫からショートケーキを二つ取り出してくる。

 それをお皿に乗せて運んでくると、俺の隣に座ってから、「食べよ?」と。


「これ、もしかして手作りですか?」

「うん。スポンジは市販のものだけど、クリームはさっき作ったの」

「そんなわざわざ……食べてもいいですか?」

「うん、食べて」


 とても手作りとは思えないほど綺麗にクリームが塗られたケーキをフォークで一口。

 

「あ、美味しい。本当にこれ、手作りですかってくらい美味しいです」

「よかった。うん、今日は記念日だから頑張ってみたの」

「紫苑さん……はい、ありがとうございます」


 正直なところ、さっきまでは不安だった。

 付き合ったなんて話も、先輩からしてみたらお試し的なものであったり、それこそ断りにくくて仕方なくOKしてくれただけなのかもって、心配だった。


 だけど、先輩も先輩で俺と付き合うことを喜んでくれてるみたいだというのが、この手作りケーキからも伝わってくる。

 急にケーキを作ろうだなんて、案外先輩も浮かれてたり……いや、さすがにそこまではないだろうけど。

 

 あれ? そういえば保健室を出る時も、食後にケーキがあるとか、言ってなかったっけ?


 あの時はまだ告白する前だったはずだけど……いや、ただの偶然かな。

 ケーキを買って帰るつもりだったけど、俺が帰り道に突然告白なんかしたから、俺の頑張りを労ってくれようと、手作りケーキに変更したに違いない。


 優しいなあ、先輩は。

 それに、そんな優しくて美人な先輩の彼氏に、俺はなったんだ。


 今日から少しずつでも、先輩に相応しい人間になれるように。


 知り合いから恋人って立場に変わっていく戸惑いはあるけど。

 先輩が俺を受け入れてくれた以上、しっかり彼氏として。


 頑張らないと、だな。



 今日は記念日だもんね。

 私と千代君が婚約した記念日。

 えへへっ、名前で呼んでもらっちゃった。

 それに、名前呼んじゃった。


 だって、私ももう少ししたら常盤になるのに、いつまでも常盤君っておかしいもんね。


 でも、せっかく婚約までしたのに千代君ったらどうしてまだそんなによそよそしいんだろ?

 緊張してる、から?

 だったら、私と一緒だ。

 私も、恋人から妻という立場にどう変わっていけばいいのか戸惑ってるところだから。

 

 せっかく千代君が結婚しようって言ってくれたんだから。

 

 頑張らないと、だね。

 


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