返せ
♥
「私の為にお弁当取ってきてくれるなんて、優しいね。好き」
保健室のベッドの上で、まだ少し重い頭をふらつかせながら私はつぶやく。
彼の変わらない優しさが、見返りを求めない無償の愛が、私を満たしてくれる。
でも、同時に寂しくなる。
たった数分でも、彼がここにいないだけで私はまた、胸が苦しくなる。
「……置いていかないで」
一人の時間が、辛い。
もう、泣きそうになっていると先生が私の前にあたたかいお茶を出してくれた。
「ほれ、飲んで落ち着け」
「……ありがとうございます」
「なあ氷織、もしかして今日の過呼吸の原因は彼なのか?」
「……知りません」
「あ、そ。まあ、そういう思春期特有の不安定な気持ちも理解できないことはないが、しかしあんまり迷惑ばかりかけていると嫌われるぞ」
「常盤君は、私のこと嫌いになったりなんか、しない……」
「はは、いらんお節介だったかな。だがな、とりあえず授業くらいはちゃんと受けられるように頑張れ。専業主婦になったって、男の仕事の帰りを待たなきゃならんだろ。信じて待っててくれるっていうのも、相手にとっては嬉しいことなんだぞ?」
「……」
先生のお節介な講釈は、それでも言ってることが正しいってことくらいは理解できた。
私は何も信じられない性格だから。
だから、ずっと彼のそばにいて彼を見続けていないと安心できないんだってことも、冷静になればなんとなくはわかる。
わかるけど、わかったところでどうすることもできない。
今だって、すぐに彼のところに飛んでいきたい。
「……先生、私、いかなきゃ」
「ん、どこにだ? 弁当、とってきてくれるんだろ?」
「ううん、行かなきゃ。私、行かなきゃだめなの」
「……そうか。まあ、無理はするなよ」
「はい」
先生は一年生の時から保健室によく通う私のことを見てきたからか、私の言葉足らずな言い分を理解してくれたようにうなずいて、ベッドから起こしてくれた。
そして、私は重い足取りを教室へ向ける。
お弁当を取りに行っただけなのに彼の帰りが遅い。
もしかしてクラスの女の子に声をかけられて困ってるんじゃないか。
それならまだしも、その子たちと会話が盛り上がってしまって、私のことなんか忘れちゃってるんじゃないか。
そう思うと、居ても立っても居られない。
普段は近づきたくもない教室に、私は急ぐ。
「常盤君、どこ?」
ふらふらと教室に近づくと、何やら教室の中が騒がしい。
昼休みになるとこうしてくだらない会話で盛り上がるみんなが、嫌い。
話は決まって下世話なことか、他人の悪口。
そういうのが嫌で、ずっと私は耳を、心を閉ざしてきた。
他人なんかみんな、所詮自分のことしか考えていないんだって。
両親だって。
昔、私が寂しくて一緒にいてほしいって泣いたって、仕事を選んで。
友達だと思ってた人だって。
私のことを、飾りか何かくらいにしか思ってなくて。
でも、常盤君だけは違った。
私のこと、いつも大切にしてくれる。
何があっても見返り一つ求めず、優しくしてくれる。
もう、あんな人とは二度と巡り合えないと思う。
私の、唯一無二の人。
教室に、いるのかな。
「……あ」
教室の後ろの扉を開けると、そこに彼はいた。
でも、尻餅をついて困った顔で私を見ていた。
それに、
「なんでそれを、他人が持ってるの?」
私のお弁当。
私が、彼の為だけに愛情をこめて作ったお弁当。
今日のおかずはだし巻きとほうれん草のサラダと、丹精込めて握ったおにぎり。
なんで、それを常盤君じゃない人が持ってるの?
「ひ、氷織……お、俺はこのストーカーがお前の荷物を勝手に持っていこうとしてたから、それで」
「……ストーカー?」
ストーカーって、何?
ああ、相手が自分のことを好きでもないのにしつこく付け回すアレか。
常盤君が私のストーカーだって、言いたいの?
なにそれ、頭おかしいのかなこいつ。
相思相愛だったら、ストーカーって言わないんだよ?
むしろストーカーなのはあなたの方。
死ねばいいのに。
殺しちゃおうかな?
ううん、それよりまず。
常盤君のご飯を、返せ。
「いいからそれ、返して」
「い、いや……だってよ、連絡先も知らないって言ってたし怪しいと思ってさ」
「返せ」
「ひっ……」
私は、目の前で意味不明なことをベラベラと喋る男から大切な紙袋を奪い返した。
そして、まだ床に尻餅をついたままの常盤君を見ると、彼はとても心配そうに私を見ていた。
「先輩……あの、体調はもういいんですか?」
「うん、大丈夫。でも、人が多いから保健室に戻ろっか」
「は、はい」
私は自然と彼に手を差し伸べる。
彼は、床で冷えた手で私の冷たい手を握って立ち上がる。
常盤君のちょっと冷たくなった手も、好き。
私の体温に合わせてくれたみたいで、彼の思いやりが伝わってくる感じがする。
このまま手を繋いで、どこかに行きたい。
保健室とかじゃなくて、家でもなくて、遠い何処かに逃げたい。
そんな感情が一瞬で私の中を駆け巡ると、とても幸せな気分になる。
彼とずっと一緒。
そう思えるだけで私は、さっきまでの倦怠感も忘れてしまう。
「行きましょ」
私は彼の手を引いて教室を出た。
周囲のざわめきとか、うるさい罵声とか、驚嘆する悲鳴とか、どうでもよくて。
学校の中でも、彼の手を握っちゃった。
やっと、何かが少しだけ満たされた気分になった。
「……先輩、あの」
「どうしたの?」
「い、いえ。ええと、よかったんですか?」
「何が?」
「だって、教室は大騒ぎになってましたし」
常盤君は、不安そうに教室を振り返る。
あんなことをされても、それでもなおクズな人たちの心配までする彼の心の広さと深さが、好き。
だけど。
「あんな人たち、どうでもいい」
私は嫌だった。
クラスメイトのことも、クラスメイトたちを心配する常盤君の様子さえも。
常盤君は、私だけを見てくれていないと、ダメなの。
「……クラスで何かあったんですか?」
「ううん、別に。仲のいい人がいないだけ。でも、気にしないで」
「そう、ですか。わかりました」
常盤君はすぐに私の方を向いてくれた。
それでいいの。
それじゃなきゃ、ダメなの。
常盤君の瞳に映る景色の中心にはいつも私がいないとダメなの。
私の瞳に刻まれる光景の中心にはいつも君がいないとダメなの。
もう、他のみんないなくなればいいのに。
そうなれば、何も心配する必要なんてないのに。
みんな。
「死んじゃえばいいのに……」
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