微笑
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お腹が痛いのに、何も出ない。
多分これ、トイレに行きたいんじゃなくて慣れないことをしたストレスでの胃痛だ。
はあ……先輩と手をつないだだけでぼろぼろだよ。
情けないったらありゃしない。
「ねえ、早く」
トイレの扉の向こうから先輩の声が聞こえた。
え、いるの?
ああそうか、トイレ待ちか。
「すみません、すぐに出ます」
ズボンを履いて、慌ててトイレから出ると先輩はトイレの前に立ったままじーっとこっちを見ていた。
「終わった?」
「え、ええ。すみません待たせてしまって」
「ううん、大丈夫。お腹痛い?」
「も、もう大丈夫ですよ。俺、先にリビングに戻ってます」
「それじゃ私も」
「え?」
「何か?」
「あ、いえ別に」
トイレに行きたいんじゃなかったのかなと首を傾げたが、先輩みたいな上品な女性に「トイレどうぞ」というのも言いにくく、そのまま二人でリビングに戻った。
「ゆっくりしてて。私、ご飯作るから」
「え、もうですか?」
「うん。それに家に一度、荷物を取りに行きたくて」
「あ、そうなんですね。ええと、荷物持ちにならついていきますよ?」
「じゃあ、お願いしていい?」
「もちろんです」
「うん。それじゃ行きましょ」
また、先輩を家に送ることになって一緒に家を出た。
そういえば先輩の家族って、どんな感じなんだろう。
兄弟とか、いるのかな?
「あの、先輩のところって」
「うちは母親しかいないから。兄弟もいないの」
「そ、そうなんですね」
「うん。ほとんど家にいないから気にしないで」
「は、はあ」
俺が聞こうとする前に先輩は淡々と家族についてそう説明してくれた。
母親だけ、か。
ということは先輩も家で一人っきりのことが多かったのかな。
だから料理も上手で気が利くというか。
……。
「先輩、家でいつも一人だったら普段何をするんですか?」
「一人で、するよ?」
「え? な、なにを出すか?」
「一人で、するの?」
「え、ええと……」
「ううん、ごめんなさい。一人だと、ちょっと寂しいよね」
「そ、そうですよね。俺も、いつも一人だったから退屈してまして。でも、先輩がよく来てくれるようになって、その、ちょっと寂しさも紛れます」
「そ、っか。うん、そうだね」
先輩がこくりと頷いたところで、先輩のお家が見えた。
「それじゃ俺、ここで待ってますから」
「入らないの?」
「え? い、いえ、さすがにお邪魔するのはどうかと」
「部屋のお荷物運び出すの、手伝ってほしいし」
「そ、それもそうですね。あの、今家の人は?」
「いない。だから大丈夫よ」
「そ、そうですか。では、お邪魔します」
初めて、先輩の家にお邪魔する。
古い木造の建物だが、玄関先はとても綺麗だった。
どことなく、先輩の香りが漂う薄暗い廊下でキョロキョロしていると先輩がパチンと廊下の明かりをつけて、「奥が私の部屋だから」と。
「そ、それじゃ前で待ってたらいいですか?」
「どうして? 入ってこないの?」
「さ、さすがにそれは……」
「それは?」
「い、いいんですか?」
「うん。お荷物、運んで」
そのまま奥に進むと、ノブに手をかけて先輩は扉を開けた。
初めて、女の人の部屋に案内された。
俺の心臓の高鳴りは、もしかしたら手を繋がれた時以上だったかもしれない。
「どうぞ」
「ど、ども……」
八畳ほどのなんてことない部屋だが、甘い香りが廊下より濃く香る。
チラッと、ベッドを見る。
いつも、ここで先輩が……。
「どうしたの?」
「あ、いえ……に、荷物はどれですか?」
「そこの袋に入ってるものと、ベッドの上のぬいぐるみもお願い」
「こ、これって」
「うん、取ってくれたパンダさん。ちゃんと、大切にしてるよ」
ベッドの布団の中から出てきたのは、俺がゲームセンターで取ったあと、電車で先輩にプレゼントしたぬいぐるみだった。
大事に持っててくれたんだ。
「先輩、ありがとうございます。ちゃんと持っててくれて」
「ううん、嬉しかったから。また、取ってくれる?」
「お、俺なんかでよかったらいつでも! な、なんならこの後でも……あ、いやすみません、つい……」
嬉しかったと言われて、俺は前のめりになってしまった。
すぐに興奮気味な自分を諌めると、先輩はパンダのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、
「じゃあ、もういっこ、いい?」
と。
あまりに可愛いその仕草が、普段とのギャップもあって俺の心臓を貫いた。
「あ……」
「ダメ?」
「い、いえ……そ、それじゃあ荷物置いたら、行きます?」
「うん。私、可愛いもの大好きなの」
「そ、そうなんですね。じゃあ、俺も頑張ります」
「うん。期待してる」
初めてといっていいくらいに穏やかな先輩の表情を見た。
俺はもう、この場で先輩に抱きついてしまいたかった。
パンダに対して、そこを代われと言いたかった。
もちろん、そんなことをできるはずもなく一緒に荷物を持ってすぐに部屋を出たのだけど、俺はずっと興奮していた。
先輩が、期待してくれている。
俺がぬいぐるみをとると、喜んでくれる。
ああ、こんなことならバイトとかしておけばよかった。
お金があればもっと先輩のために色々としてあげられるのに、と。
そんなことばかり考えながらの帰り道。
我が家に向かう途中で、段々と荷物の入った袋を持つ腕が疲れてきた。
「先輩、それにしても荷物結構多いですね。何が入ってるんですか?」
「秘密。女の子は、色々と大変なの」
「そ、そうなんですね。なんか変なこと聞いてすみません」
うっかり女性の持ち物を詮索してしまった自分を悔いながら、先輩に頭を下げると。
先輩が、笑った。
俺の前で、はじめて。
「ふふっ、謝らなくていいのに」
そう言いながらクスッとして口を手で軽くおさえる彼女の横顔に俺はつい、足を止めてしまった。
「先輩……」
「どうしたの? 荷物、重い?」
「い、いえ。すみません、もうすぐですから大丈夫ですよ」
「そ。荷物置いたら遅くならないうちに出かけましょ」
「は、はい」
疲れていたはずの腕のダルさなんてもう、どこかに吹き飛んでいた。
それだけ、先輩の笑顔は俺にとって衝撃的で、魅力的だった。
玄関の鍵を当たり前のように俺の代わりに開けてくれる先輩。
家の勝手をよく知ってて、さっさと荷物を片付けてくれる先輩。
このあとも一緒に出かけて、一緒に帰ってきてご飯を一緒に食べる予定の先輩。
もう、俺の頭の中は先輩でいっぱいだった。
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