教えてあげない


「はっ……いかん、寝てた」


 うたた寝から目覚めてすぐにスマホを見ると時刻は朝の九時過ぎ。


 そしてメッセージが数件。


『千代、さっき新しい住居についたわよ』

『寝てる? 紫苑ちゃんに甘えるのはいいけど、くれぐれもちゃんとしなさいよ』

『さっき紫苑ちゃんにも連絡しておいたから。とりあえず引っ越しとかで忙しいのでまた夜に連絡します』


 全て母さんから。

 どうやら、無事新天地に到着したようだ。


 それを見て一瞬ホッとして。

 すぐに我に帰り、先輩のことを思い出す。


「いけねっ、先輩いたんだった」


 三時間以上は寝てたから、朝食なんてとっくの昔に出来上がってるだろう。


 慌てて部屋を飛び出す。

 そして、さすがに飯だけ置いて帰ってるかもと思いながらキッチンへ行くと、


「おはよ。ゆっくりできた?」


 先輩はまだ、そこにいた。

 キッチンの椅子に腰掛けて、ゆっくりとコーヒーを飲んでいるところのようだ。


「お、おはようございます。すみません、つい寝てしまって」

「ううん、大丈夫。お味噌汁温め直すから、そこに座ってて」

「は、はい」


 先輩と入れ替わるように席に着くと、テーブルの周りはまるでお花畑の中にいるような爽やかな香りが充満していた。


 シャンプーなのか香水なのか、それともこれが先輩の体臭なのか。

 なんにせよ、甘いのにくどくない、ずっと嗅いでいたいような香りに少し酔っていると先輩がチンされた味噌汁をテーブルに置いてから、「今からスクランブルエッグ作るね」と。


「今からですか? そんな、ご飯と味噌汁があればあとは冷蔵庫の納豆でも食べますよ」

「スクランブルエッグは嫌い?」

「い、いえ。好きですけど」

「じゃあ作るから待ってて」

「は、はい」


 先輩はいつものように料理を始める。

 その後ろ姿も、随分と見慣れたものだ。

 そして毎日、こうして先輩の料理する姿を見られると思うとやはり感覚が麻痺してくる。


 まるで先輩がうちに嫁に来たような錯覚。

 付き合ってもいないどころか、ラインすら交換していない彼女を嫁呼ばわりするのはさすがにドン引き案件なのだが、しかしこうも毎日通い妻のように我が家のキッチンに立つ彼女を見ていると、そんな勘違いをさせられてくる。


 普通恋人同士だって、こんなに毎日一緒にはいないだろうし。

 もちろん勘違いはあくまで勘違いだと頭の中では理解できているので、理性が崩壊して後ろから襲いかかるなんて愚行に走ることはないが。


 いくらなんでも無警戒が過ぎる。

 俺だって男だというのに。

  

 母さんの息子だから信用があるってことか?

 それとも、やっぱり男として見られていないってことなのか?


 まあ、どちらにせよ俺が男として意識されていない証拠だ。

 なんか悔しいなあ。


「はい、どうぞ」


 先輩はすぐに調理を終え、スクランブルエッグを皿に盛って戻ってきた。


「ありがとうございます。わあ、いい匂い」

「いい匂い、する?」

「ええ、とても」

「好き?」

「え? は、はい。好きですよ?」

「うん、よかった」


 先輩は表情を崩さないまま、小さく頷いて一度キッチンを出る。


 俺はその間に朝食をサッといただく。

 ただの味噌汁一つがクセになるほど美味しい。

 味の好みがあうのか、それとも先輩の料理が単純にうまいからなのか。

 俺はもう、自分の下手くそな料理の味なんかすっかり忘れてしまった。


 ここ数日だけで、先輩の料理の虜になっていた。

 こんな飯を毎日食べられるだけで俺はとんだ幸せ者だ。

 

「はあ……先輩と、もっと色々話してみたいなあ」


 戻ってきたらきっと、片付けをして家に帰っちゃうんだろうけど。

 今日くらい、俺の方から誘ってみても、いいかな。


 お昼はどこかに食べに行きませんかって、聞いてみよっか。



「幸せ」


 常盤君がご飯を食べている間に私は彼の部屋を掃除する。

 そして洗濯物を回してから、お風呂も綺麗に洗い流す。


 朝からやることがいっぱい。

 彼が寝てる間に、リビングの掃除とか随分やったけどまだまだやることがたくさん。


 主婦って忙しいなあ。

 明日から学校なんて行かずに、ずっとおうちで掃除して彼の帰りを待っていたいなあ。


 あ、でもそれだと常盤君に変な虫が寄ってきたらダメだから、やっぱり私がちゃんと見守っていないとだよね。


 うん、常盤君ってモテちゃうから。

 カッコよくて強くて優しくて。

 放っておかないよね、絶対。


 あはっ、それじゃ明日からはこの家から一緒に登校だ。

 うん、いいねそれ。すっごくいい。


 一緒に家を出て一緒の電車に乗って一緒に正門をくぐって一緒にお昼食べて一緒に下校する。

 そして一緒の家に帰ってきて一緒にご飯食べて一緒に同じテレビ番組を見て最後は一緒に部屋に……。


 うんうん、楽しい。

 ずっと、ずうっと一緒だ。

 常盤君もきっとその方がいいよね。


「えへへ、今日はお風呂でお背中流してあげようかな」



 食べ終えても先輩は戻ってこない。

 なにか用事でもしているのか、それとも何も言わずに帰ってしまったのか。


 しかし先輩を探しに行く前に今日くらいは自分で片付けをしておこうと食器を洗う。


 すると、電話がかかってきた。

 金子だ。


「あ、もしもし? 金子、どうした?」

「いやー、今日は急に暇になってさ。千代が予定ないなら一緒に遊ばねーかなって思って」

「なんだ、そんなことか。高屋さんにフラれたか?」

「ばーか、順調だよ。でも、今日は友達と出かけるみたいだから。で、どーなのよ。この後空いてるのか?」

「この後、か」


 金子くらいしか高校に友人なんていない俺が他にこれといった用事なんてあるわけがない。

 たまには休日に友人と遊ぶのも悪くない。

 しかし、


「……やっぱり今日はダメだ。すまん、また今度にしてくれないか?」

「なんだなんだ、デートか? もしかして、氷織先輩とじゃないだろなあ?」

「そ、そんなわけないだろ」

「でも昨日だって一緒にいたじゃんか」

「あ、あれはたまたまその辺で会っただけだよ」

「ふーん、まあそういうことにしといてやるよ。んじゃ、また明日学校でな」

「ああ、すまんな」


 ちょっぴり残念そうな金子には申し訳ないが、俺も今日くらいはわがままにならせてほしかった。


 先輩を、デートに誘う。

 ランチデート。

 一回やってみたかったんだよなあ、女の人と休日にランチってやつ。


「先輩……」

「なに?」

「え? わっ、すみません、いたんですか」

「うん」


 振り向くと先輩が真後ろに立っていた。


「電話、誰?」

「え? 金子ですけど」

「遊びに行くの?」

「いえ、今日はめんどくさいので断りました」

「そっか」

「……あの」


 そっけない先輩はまたどこかに行ってしまいそうだったので呼び止める。

 そして、勇気を出して聞いた。


「この後、お昼でも食べに行きませんか?」


 その一言で心臓が破けそうだった。

 でも、ここまで面倒見がいい先輩のことだからきっと、俺のわがままにも付き合ってくれると。


 そう思っていたんだけど。


「……だめ」


 あっさり断られた。


「だめ、ですか……」

「うん。お昼は作るから」

「……わかりました。あの、ちょっとお昼まで休みます」

「うん」


 俺は誘いを断られたショックで放心状態になって、部屋に戻った。

 ちょっと期待した俺がバカだった。

 先輩は必要もないのに俺なんかとデートなんて、したくないに決まってる。


「はあ……こんなんじゃどうやっても仲良くなんてなれないじゃん」


 こんなに近くにいるのに、触れることも許されない。

 ほんと、なんで金子の誘いを断ったんだろう。

 こうなるくらいなら最初っからあいつと遊びに行っておけばよかったのかなあ。



「えへへ、お友達のお誘い断ってくれてえらいね、常盤君」


 せっかくお昼の献立もちゃんと考えてたのにお出かけしちゃうんじゃないかなって心配だったけど、杞憂だったね。


 常盤君は私がいるのに他の人とでかけたりなんか、絶対しないもんね。


 でも、気を遣わせちゃったなあ。

 本当は私のご飯が食べたいはずなのに、ランチしようとか。

 言わせちゃったみたいで罪悪感。

 それに、私はランチとか行かないよ?

 だって、他の人が作ったご飯を彼が食べるなんて、許せないもん。

 

 常盤君は私の見てるところで私が作ったものだけをずっと食べ続けるの。

 

「お昼はドリアだよ。チーズたっぷり、とろっとろだからね」

 

 

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