お誘い


「食べ終わった?」


 俺が空いた食器をシンクに持って行ってるところで氷織先輩が戻ってきた。


「は、はい。とてもおいしかったです」

「そっか。片付けは私がするから、置いてて」

「い、いえこれくらいは俺にやらせてください」

「いいの。私にさせて」

「で、でも」


 洗い物をする俺の側に先輩が来ると、洗剤の香りをかき消すように、彼女の甘い香りが一帯を包む。


 そして、俺の横で「今日のお礼だから」と。

 そう言われて、俺は少し嬉しくなって手を止めた。


 先輩を助けたこと、ちゃんと感謝してくれてたんだ。

 直接ありがとうとも、ごめんとも言われてなくて正直心の中では余計なお世話をしたかなと思ってたから、そう言ってくれるだけで俺は嬉しかった。


「……いえ、あんなの当然ですよ」

「なんで?」

「だ、だって……困ってる人がいたら、その、見て見ぬふりなんてできないじゃないですか」


 まあ、そういう気持ちは常々持ってはいるが半分以上は強がりだ。

 本当は知らんふりしたいって思ってる。

 トラブルになんか巻き込まれたくない。

 俺の知らないところで誰がどうなろうと関係ないって、俺じゃなくてもみんなそう思ってるはずだ。


 でも、そんな冷たい人間だなんて思われたくもなかったから。 

 つい、かっこつけたことを言ってしまった。


「そ。優しいんだね」

「い、いえ、俺はそんな……と、とにかく洗い物はさせてください。もう、お礼なら充分いただきましたし、これはご飯作ってくれたお礼ってことで」

「うん。それじゃ、今日は私が食器を拭くね」


 先輩は俺の反対隣に回って、布巾を手に取る。

 すると、使い古したそれを見ながら、「これも、買い換えないと」って、小さく言った。


「そ、そういえばもう汚いですもんね」

「うん。買い物とかは、いつもどこに行くの?」

「こ、この辺だと近くのスーパー、ですかね。先輩は?」

「私、海の方にあるホームセンターにたまに。広いし、品揃えいいから」

「へえ、そういえば行ったことないですね」

「ないんだ」

「え、ええ。海の方って観光客が多いので、あんまり行かなくて」

「海……うん、それじゃ買い物、行こっか」

「え?」


 水の流れる音でよく聞き取れなかったけど、今、先輩に買い物に誘われた?

 いや、そんなわけないよな。


「あの、今なんて言いました?」

「買い物。布巾も買い替えないとだし、よく見るとフライパンも錆びてる」

「そ、それなら俺が明日にでも」

「ううん、私も使うから見に行きたい」

「……一緒に、ですか?」

「私とだと、不都合なことある?」

「い、いえ。そんなこと、ありませんけど……」

 

 俺は、食器を洗う手の震えを必死にこらえながら先輩に洗ったものを渡す。

 まさか、休日に先輩と一緒に買い物に行くなんて、そんなことがあり得るのだろうかと、横にいる先輩を見ると「何?」とだけ。


 慌てて目を逸らして、高鳴る心臓を鎮めようと何度も深く呼吸して。


 やがて全ての洗い物が終わると、先輩は手を洗ってから「支度してきて」と言って、エプロンを脱ぐ。


 前掛けを外すだけの動作にも、俺はいちいちドキッとしたが、先輩の姿に目を奪われているとまた冷たい目で見られたので一度部屋に逃げ帰った。


「はあ……なんか今日はずっと先輩と一緒だな」


 部屋で着替えながら、もう一度呼吸を整える。

 まさか休日に先輩と一緒に出掛けることになるなんて思ってもみなかった。


 俺、あんまり出かけることなんてないから私服もほとんど持ってないんだよなあ。

 とりあえずジーパン穿いてシャツでも……うーん、まあこんなもんか。


 あんまり先輩を待たせてもだし。

 

 ……緊張してきたな。



 よかった、ちゃんと言えた。

 ちゃんと、常盤君をお買い物に誘えちゃった。


 一緒にお出かけだ。

 それに、ホームセンターに行くときには海沿いの道を通るの。

 私の本当の目的はね、それなの。


 赤糸浜を一緒に歩いた二人は結ばれる。

 こんな迷信みたいなものを真に受けてるわけじゃないけど。

 でも、常盤君がうっかりほかの誰かと一緒にあそこを歩いたりなんかしたら、私はきっとその相手に嫉妬して殺しちゃう。

 

 やだもん、そんなの。

 常盤君が他の子と赤い糸で結ばれるなんて、そんなことあったらダメなの。


 たとえそうなっても、私はきっとその糸を切って、私の糸にグー結びしちゃうけどね。

 でも、せっかくだから結び目なんてない方がいいもんね。

 えへへ、買い物ついでに日用品も買い足しておこう。

 あとあと、常盤君のお部屋にある時計も電池切れてたし。


 うん、いっぱいやることだらけだ。

 主婦って忙しいなあ。

 旦那さんのためにあれこれと気を回さないといけないから大変大変。


 でも、幸せ。

 そういう充実感が私を満たしてくれるの。

 常盤君が使うものは全部私が買ってあげたものにしたい。

 常盤君が食べるものは全部私が作ったものにしないと。

 常盤君が一緒にいるのは、常に私だけじゃないと。


 許さないよ?

 浮気なんて、絶対ダメだよ?

 ふふっ、今度からはお友達と遊ぶのも控えてもらわないとだね。

 

「ふふっ、お着換えまだかな? 私はもう、準備万端だよ」

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