そろそろ行かないと


「……さすがにもう、帰ったのかな」


 風呂から出て着替えてすぐにキッチンへ向かった。

 三十分以上湯船に浸かっている間、特に外から物音などはしなかった。

 キッチンの扉をあけると、そこにはもう誰もいない。

 玄関へ向かうと、先輩の靴らしきものもない。 

 

「帰った、か」


 やっと、肩の力が抜けた。

 先輩が帰ってホッとしたなんて言えば、随分失礼な言い方にはなるけど実際のところやれやれといった気分だ。

 学校の先輩とはいえ、ほとんど接点のない女性と家で二人っきりなんて、俺みたいなやつには荷が重すぎるし。

 それに、そんな状況が続けば俺だって男なんだから下心を抱いてしまわないとは言い切れない。

 あわよくば、とか。

 何かの間違いで、なんて邪な考えを見せて、せっかく母さんと仲良くしてくれている彼女に変な目で見られても気まずいし。


 やれやれだよ、まったく。

 さて、とりあえず鍵しとくか。

 最近変質者も多いし……。


「あれ、鍵がかかってる?」

 

 玄関の内鍵に手を伸ばそうとすると、しっかり施錠されていることに気づく。

 ……まだ先輩は帰ってないのか?

 もしかしてトイレとか?


「先輩、まだ家にいますかー?」


 とはいえトイレに呼びに行って本当にいたらそれこそ大事なので、とりあえず玄関から大きめの声で呼びかけてみる。

 しかし反応はない。

 やっぱり、帰ったようだ。


「……ま、いいか。とりあえず、俺もゆっくりしよう」


 さっきまでの張り詰めた空気から解放された俺は、これ以上あれこれと考えることもめんどくさくなって部屋に戻った。


 そして部屋に入ると、またしても部屋が片付いていた。


「母さんのやつ、また勝手に入ったな。出かける前に片付けする時間があるなら氷織先輩の相手でもしろよな」


 シーツも交換してある。

 机も、片付けただけじゃなくてちゃんと拭いてくれてる。

 ほんと、気が利くのか利かないのかわかんない母親だな。


「さてと、寝るか」


 長風呂のせいか、体がぐったりだ。  

 すぐに明かりを消してベッドに横になる。


 干したばかりのお日様のいい匂い。

 あと、やっぱりほのかに漂う爽やかな香りが俺の疲れを癒やしてくれる。


 母親の香水でリラックスするなんて、そんな話を誰かにしたらマザコンだとでも笑われそうだ。


 ……明日、学校で金子は普通に話してくれるのかな。

 高屋さんの言ってたこと、よくわかんなかったし。

 宮間さんにだって、嫌な思いをさせたのだったら、できればちゃんと話して謝りたいけど……でも、あの感じなら無理そうだよな。


 高屋さんに言われた通り、そっとしておこうか。

 

 ほんと、よくわからない一日だった。 

 明日こそは平穏な一日でありますように。


 明日もやっぱり、先輩と会えるのだろうか……。



 翌朝。

 今日は駅へ向かって歩いている途中で氷織先輩と遭遇した。

 家を出てしばらく真っ直ぐ道なりに行った後で大きな道に出る手前を右に曲がると駅が見えるのだけど。

 その角を曲がったところに先輩はいた。


 いた、というより駅に向かう先輩に俺が追いついたって感じで。

 閑散とした住宅街を優雅に歩くその女性が遠目でも先輩だとわかった。


 もちろん、昨日家に来たばかりってのもあるけど。

 そうじゃなくても、多分俺はすぐに先輩に気づいただろう。


 だって、朝起きた時から家を出て先輩を見つけるまでの間もずっと、俺は先輩のことばかり考えていたんだから。

 綺麗で、料理がうまくて、お淑やか。

 俺みたいなのとは住む世界が違う彼女を、最近何度も間近に感じてしまったのだから、惹かれるのも当然だ。

 

 俺は氷織先輩のことを意識している。

 好きと、はっきり言えるのかどうかはわからないけど。

 もっと仲良くなりたい。

 もっと喋ってみたい。

 

 朝からずっと、そんなことを考えてしまっていた。 

 だけど、俺は話しかけることもできず、先輩の後ろ姿を追いかけるように駅にゆっくりと向かっていき。

 電車でもずっと、同じ車両になった先輩を少し離れたところから見ているだけで。


 やがて人混みに飲まれて先輩の姿を見失ったまま。

 学校に到着した。


「はあ……」

「おい千代、朝からため息なんてどうしたんだよ」

「あ、金子か。いや、別に」


 正門手前で金子が茶化すように俺に声をかけてきた。

 ただ、金子の軽いノリに合わせるテンションではなく、やる気なく返事した。


「なんだよ千代、もしかして昨日の高屋さんに言われたこと、まだ気にしてんのか?」

「ん、そりゃあな。でも、もう別にいいよ」

「そっか。俺もさ、詳しく話聞いてないんだけど、お前のことは信じてるからな」

「別に高屋さんの肩を持っていいんだぞ」

「そーいうとこだよ。昨日さ、お前が俺のことを心配してくれてたのがすっげえ嬉しくてさ。だからさ、これからも俺はお前の友達でいたいし、味方だからな」

「金子……うん、ありがとな。で、高屋さんとはいい感じなんだろ?」

「いやー、ばっちりだよ。明日は休みだろ? だから一緒に買い物行く約束してんだ」

「いいなあほんと。俺も彼女欲しいなあ」


 他愛もない話をしながら教室へ。

 すると、先に教室にいた高屋さんと宮間さんの姿が見えた。

 そして宮間さんがこっちを向いて、目が合う。

 が、すぐに顔を背けられた。

 もちろん想定内というか、俺も期待はしていなかった。

 金子もその様子を見て、「またいい子がいたら紹介してやるさ」と慰めてくれる。

 ほんといい友人を持ったものだ。

 こいつに彼女ができちゃうの、ちょっと寂しいかもな。

 金子が高屋さんと付き合ったら、多分俺といる時間は減るだろうし。

 そうなったらいよいよ、俺も俺で彼女作らないとまた中学の時みたいになんの刺激もない学校生活に逆戻りだ。


 ……金子になら、相談してもいいかな。


「なあ、昼休みちょっと話したいことあるんだけど」

「なんだなんだ、まさかお前、高屋さんに嫉妬して俺に告白」

「しねえよバカ。いいから、ちょっと相談したいことあんだ」

「ほー、それはもしや恋愛の悩みか?」

「……どうだろうな」

「はは、堅物そうに見えてちゃんとそういうの興味あんだな、千代も」

「まだそうだとは言ってねえだろ」

「はいはい、とりあえず昼休みな」

「……頼むよ」


 とりあえず金子には、ここ数日の氷織先輩とのことを話したかった。

 ほとんど偶然の連続みたいなことだけど、あの氷織先輩と実は絡みがあって、ちょっといいなと思ってて。

 そんな話をしたら笑われるかもしれないけど、もっと仲良くなるにはどうしたらいいのかなんてことも、金子に教えてもらいたいし。


 そういや、今日も例の弁当は届けられるのかな。

 氷織先輩はそういやいつもお昼は何食べてるのかな。



「お弁当、渡しそびれちゃった」


 今日は朝からずっと常盤君の視線を感じて登校できたからとても幸せだった。

 早くに改札で待ち伏せしていようと思ってたのに、まさか彼の方から追いかけてきてくれるなんて。


 ふふっ、ハンバーグが効いたのかな?

 それとも、常盤君は最初っから私にぞっこん?


 うん、そうだよね。

 命をかけて守ってくれたもんね。


 だけど私はいつも人見知りが酷くて、彼と話すどころか、隣に立つのもやっと。

 こんな無愛想な私を見せて嫌われたらどうしようって思うと不安になってしまって、肝心なところで彼を避けてしまってたけど。


 常盤君が手を、握ってくれた。

 常盤君がぬいぐるみをくれた。

 常盤君が隣で家事をしてくれた。


 いつも彼が私のために頑張ってくれてる。

 だから私も期待に応えたい。

 いつまでもコソコソしてるだけじゃ、ダメ。


 好き、大好き。

 今日だって、お義母様に彼の食事のことを頼まれてるんだから。

 ちゃんと、妻としての責務を全うしないと。


「うん、今日はちゃんと……直接お弁当、渡しにいくね」


 待っててね常盤君。


 大好き。

 

 

 




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