そこに君がいる


「あれ、そういえば母さんは?」


 最後の食器を拭き終えた時にふと。

 手を洗ってから一度廊下に出て玄関に行くと、すでに母さんの靴はなかった。


「ったく、出かける前に声くらいかけて行けよ」


 ほんと自由気ままな人だ。

 勝手に客人を招いて飯を作らせて、その上その客人を置いてでかけるなんて。


「……待てよ、ということは今、先輩と家で二人っきり、なのか?」


 ちょっと冷静になってみると、今がどれだけとんでもない状況なのか理解してしまった。

 あの氷織先輩が、別に友人関係になったわけでもないのに俺しかいない家の中にいる。

 

 だからといって何か手出ししようなんて度胸が俺にあるわけでもないけど。

 単純に気まずい。

 さすがに先輩にも声をかけて帰ってもらった方がいい、よな。


「あのー」


 キッチンに戻ると、先輩はちょうどくくった髪をほどいていた。

 サラッとした髪がとかれると、先輩は少し乱れた前髪を細い指で整えながらこっちを見る。


「おばさま、出かけたの?」

「え、ええ。すみませんせっかちな親で」

「ううん、とてもいい人よ、おばさまって」

「そ、それはどうも……あのー」

「なに?」

「……」


 母さんが出かけたんだから、先輩ももう帰ったらどうですか、と。

 聞こうとして、口籠る。

 あまり不躾にそんなことを言うと、彼女がいることが迷惑だって言ってるような気がして。

 せっかく飯まで作ってくれた人にそんな言い方はないだろうと、どう伝えたらいいか考えているところで先輩が。


「お風呂、入らないの?」


 そう言った。


「え、ええ。もちろん入りますけど」

「けど?」

「いや、先輩が帰ったら、まあ」

「私がいると、何か不都合でも?」

「い、いえそういうわけでは……」

「じゃあ、お構いなく」

「え、ええ」


 先輩は淡々と俺に聞いてくる。

 なんだろう、二人だと気まずいから早く風呂にでも行ってくれってこと、なのかな。

 いや、それにしたってこの人はいつまでここにいるつもりなんだ?

 まさか母さんが帰ってくるまで……いや、それは流石にないか。


「そ、それじゃ風呂沸かしてきます」

「もう沸いてるから」

「そ、そうなんですか? で、ではお風呂、失礼します」

「うん」


 俺は先輩を残してキッチンを出る。

 客人を一人にして風呂に向かうなんて、母さんのことは言えないなって思うけど今ばかりは仕方ない。

 何を言っても先輩は動く様子がなかったし、俺も先輩を前にすると緊張のあまりうまく喋れない。

 それに、何か失礼なことを言ってしまう前に退散しようって思わされたのは、多分高屋さんとの話のせいもあっただろう。


 高校で新しい環境になって友人ができて、女子との絡みも持ててちょっと調子に乗りかけていたけど、所詮俺は女の子と付き合ったことすらない童貞男子だから。

 宮間さんに対して、自分でも気づかないうちにボロが出てたんだろう。

 だから氷織先輩の前でなんて、もっと酷いボロが出かねない。

 こうした方がきっと得策だったんだ。


「……まだ、先輩いるのかな」


 風呂に入りながらも、キッチンに残してきた先輩のことが気になって仕方ない。

 できればもっと話してみたかったし、母さんとはどういう仲なのかもちゃんと聞きたかったけど。


 うまく聞ける自信もないし。

 今日はちょっと長風呂しようかな。

 さすがにキッチンで一人暇してたらそのうち帰るだろう。

 ほんと、今日は急な来客に悩まされる一日だ。


 明日一日学校に行ったら週末か。

 週末はちょっとゆっくりしよう……。



「ふふっ、またお部屋散らかしちゃって。常盤君ったら、ほんと男の子なんだから」


 彼が風呂に向かったのを見て、私は彼の部屋へ。

 今日もお部屋掃除。

 積まれた漫画を本棚に戻してから、散らかった机の上を整頓。 

 そしてお日様の光をたっぷり吸ったシーツをベッドにかける。

 いい匂い。

 私はベッドに横になる。


「ふふっ、常盤君のベッド気持ちいい。このままここで寝たいなあ」


 親公認の仲だから、あんなことやこんなことだって、彼が求めてくれるならなんだってしたい。

 でも、あんまり私からアピールして淫らな女だって思われたくもないし。

 難しいところだね。

 常盤君、優しくて奥手っぽいから年上の私がリードしてあげたいけど。

 でも、私も恥ずかしがり屋さんだから。

 お互い、まだうまく喋れないね。


「似たもの同士だね。えへへっ、お似合いだね」


 彼の枕に顔を埋めて、思わずにやける顔を隠す。

 そしてかすかに残る彼の香りを堪能して、私は体を起こす。


「常盤君、結構お風呂長いもんね。今のうちに洗濯と明日の朝ごはんの準備も済ましておこうかな」


 もう、すっかりお嫁さんになった気分。

 ううん、もう私は彼のお嫁さんだから。

 

 毎日家に通って、毎日私の作ったものだけが彼の胃に運ばれて、私の手で洗ったものだけを彼が着て、私の香りがするものだけを彼は使う。

 私は、彼だけのもの。

 彼は、私だけのもの。

 

 そうだよね。

 ね、常盤君。

 ちなみにね。


「週末の予定はね、ちゃんと考えてるからね」


 

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