そのお味は
「千代、ご飯できたわよー」
母さんに呼ばれて、俺は再び部屋を出る。
そしてキッチンに向かうと、すでに氷織先輩と母さんが向かい合うように席に座っていた。
「……」
「なにぼーっとしてるのよ。ほら、そっち座りなさい」
「え、俺が先輩の隣?」
「当たり前でしょ。母親と隣り合わせで食事なんて気持ち悪いこと言わないでよね」
「あ、ああ、うん」
俺は恐る恐る氷織先輩の隣へ。
すると、ハンバーグのいい匂いとは別に、甘くて心地よくなる香りがフワッと鼻腔をくすぐる。
なんだろう、先輩の香りを嗅ぐとふわふわする。
「じゃあいただきましょう。紫苑ちゃん、今日はありがとね」
「いえ。大したものじゃないですが」
「ほら、千代も呆けてないでさっさと食べなさい」
「う、うん」
隣にいる先輩の姿とその香りに酔いしれていた俺は、笑に帰って両手を合わせる。
そしてハンバーグを一口。
「……うまっ」
「うーん、紫苑ちゃんの料理は美味しいわねー。千代、こんな美味しい料理を作ってくれたんだからもっと感謝なさい」
「あ、ありがとうございます……ええと、氷織先輩」
「うん。いっぱい食べてね」
表情を崩さないまま、先輩は小さな声でそう言った。
改めて聞くと、とても澄んだ綺麗な声だ。
そんな彼女は小さな口に切り分けたハンバーグを運んでから、チラッと俺を見た。
「あ、あの……何か?」
「ぬいぐるみ、ありがと」
「え? あ、ああ別にあれくらい……というか迷惑じゃありませんでしたか?」
「ううん、すごく嬉しかった。大切にするね」
「は、はい」
ぬいぐるみのこと、ちゃんと嬉しいと思ってくれてたんだな。
それに俺のこともちゃんと覚えてた……。
なんだろう、他愛もないことなのに、こんなに嬉しい気持ちになるのは久しぶりだ。
「あ、あの、氷織先輩」
「……」
「あ、あのー」
「……」
先輩に覚えてもらえてたことが嬉しくてつい話しかけてしまったが、やはり先輩の方は俺と親しくする気はない様子。
目を逸らして沈黙。
それを見て、俺も諦めて食事を続けた。
三人とも黙々とハンバーグを食べる。
話題がない、といえばそれまでだけど、それ以上に彼女の料理は美味しくて、母さんも喋るのを忘れて夢中になっていた。
「うん、ご馳走さま。紫苑ちゃん、ほんと美味しかったわ。ね、千代」
「う、うん。美味しかったです」
「いえ、喜んでいただけてよかったです」
「じゃあ私はこの後出かけてくるから」
「え、また?」
「付き合いが多いのよ。じゃ、あとはよろしくね」
箸を置くと、母さんはさっさと自分の部屋に戻っていった。
相変わらずそそっかしい人だなと呆れていると、隣に座っていた先輩も席を立つ。
母さんの知り合いとしてここに来たわけだから、当然母さんが出かけるとなると先輩も帰るだろうと。
思っていたら何故か食器を片付け始めた。
「え」
「……どうかした?」
「い、いえ。あの、片付けなら俺がやりますよ?」
「ううん、私がするからいい」
「で、でも」
「片付けまでが料理だから。それとも、迷惑?」
「そ、そういうわけじゃありませんが」
「じゃあ、ゆっくりしてて」
「は、はあ」
どういういきさつでうちに来たのかは知らないが、仮にも客人の立場である先輩に後片付けをさせるのは気が引ける。
でも、先輩の無感情な目は俺に有無を言わせない。
黙々と、食器をキッチンへ運ぶ先輩をしばらく俺はただ見ていた。
手慣れた様子で家事をこなす先輩の姿に、見蕩れてしまっていた。
洗い物をするとき、袖を軽くまくって長い髪を後ろで高く結う先輩の姿が眩しかった。
細い首筋が覗くと、俺はまた胸を高鳴らせてしまう。
「……い、いかん」
そんな先輩の様子をしばらく後ろからジロジロ見ていた俺はやがて我にかえる。
そして、
「あの、俺も手伝います」
と、声をかけると先輩は洗い物をしながら軽くこっちを振り返って。
「じゃあ、洗った食器を拭いてくれる?」
静かにそう言ってからまた前を向いた。
「は、はい。それじゃ洗い物はすみませんがお任せします」
「……うん」
恐る恐る、彼女の隣に立つ。
洗剤とは違う、優しい香りがまた俺の脳を刺激する。
彼女がピカピカに磨いた食器を俺に渡してくるたびに、俺は口から心臓が飛び出してしまいそうになる。
あの氷織先輩と、自宅のキッチンで二人っきり。
普通じゃ絶対にあり得ないこのシチュエーションがまだ信じられないまま。
俺は寡黙に食器を拭き続けた。
♡
常盤君って、家庭的で女性想いの人なんだね。
やっぱり好き。
もちろん、常盤君がちょっと乱暴な男の子だったとしても好きだけど。
私のハンバーグ、美味しそうに食べてくれてた。
その様子を、あんなに間近で見られた。
私、常盤君が美味しそうに食事する横顔を見ただけでちょっと湿っちゃった。
ジーンズを履いてきてよかった。
ドキドキしすぎて、汗かいちゃった。
太ももの辺りを、汗が滴ってる。
それに、隣で一生懸命食器を拭いてくれる彼の横顔も、素敵。
お皿を彼が受け取る時に、彼の小刻みな震えがお皿越しに伝わってくる。
その微細な振動ですら、私の心を大きく揺さぶる。
お義母さま、もうすぐお出かけなんだよね。
この後は、彼とおうちで二人っきり。
お風呂、お背中流してあげたい。
ゆっくりしてる間に寝室のシーツ、ちゃんと整えておくからね。
ふふっ、こんな風に一緒にキッチンに立ってるともう結婚した気分。
早く入籍も済ませて、近所の人から「常盤さんの奥さん」なんて呼ばれたい。
今日は、夜が長くなりそうだね。
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